2024年4月21日 主日礼拝 ヨハネの福音書4章27-38節「霊的収穫」

 

 いつの時代でも、自分の知っている人が、自分の知らない人と話していたら、誰だろう、何を話しているのだろうと思うことが多いと思います。そして、知らない人が異性であれば、何かを疑うわけではありませんが、ますます気になるところかもしれません。 弟子たちは、食物を買いに町に行き、戻って来て、主イエスが女の人と話しているのを見て、驚きます。ただし、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う弟子はだれもいなかった。

 

 一方、女の人は、水を汲みに来たのに、水がめを置いたまま、いつもは、人々から距離を置いていたのに、「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」と言う。私の過去を言い当てたすごさと言うより、この方はキリストなのでしょうかということに、関心が移っています。 暑い真昼頃なので、人々は家にとどまっているのですが、「この方がキリストなのでしょうか」という声に、人々も関心を持ち、イエス様のもとに押し寄せます。

 

 弟子たちは、「先生、食事をしてください」と勧めています。面白い対比だと思いますが、弟子たちはいつもキリストとともにいるので、いつも通り、食べている。しかし、町の人々は休むことを切り上げて、キリストのところに押しかける。 日常の生活は大切ですが、恵みの中にいる者は、時に、その恵みを忘れてしまう。逆に恵みに溢れると日常を忘れてしまう。本当は日常も恵みも、どちらも大切なことです。

 

 イエス様は、旅の疲れで、井戸端にお座りになっていたのに、この女性と対話し、そのことを喜ばれ、「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」という。 弟子たちは、「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」と考える。もしかするとあの女性が、何かくれたのかと。 人となられたイエス様にとっては、動けばお腹もすくし、疲れも覚えられるが、「わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げること」、御父の願っていることを成し遂げることは、霊的な食物であると言う。

 

 空腹を感じても、食事より先に取り組みたいこともあり、成し遂げることで、喜び、満足することもある。では、何がイエス様の心を満たしたのか。それはあの女性がキリストであるご自身に出会ったこと。そして、神様を礼拝するとは、伝統や場所に基づくのではなく、御霊と真理によるということを理解し始めたこと、そして、人を避けていたこの女性が、水がめを井戸の横に置いたままでも、人々に、キリストを伝えようとしたことでしょう。

 

 彼女にとって、井戸端でお会いした方が、キリストであるという確信はどれほどか。初めは預言者であると思っていた。しかし、次第に、キリストであろうと、確信を深めつつも、断言せず、町の人々に、「この方がキリストなのでしょうか」と問うています。

 

 もし彼女が「私はキリストに出会いました。皆さんも会うべきですよ。」と断言し、キリストに会うように指示していたら、人々は拒絶したかもしれません。キリストかどうか、判断するのは皆さんで、今井戸のところにいるので来て、見てくださいと勧める。

 

 この「来て、見て」というのは、聖書にある、キリストに出会う1つのパターンで、ピリポもナタナエルに「来て、見なさい」(ヨハネ1:46)と言っています。イエス様が天に上られてからは、連れていく場、見てもらう対象は、イエス・キリスト本人または、イエス様を信じ、イエス様に従う人々であったり、その人々が集う教会です。そして、見ることから、福音を聞くこと、聖書を読むことに移った部分もあります。見ることも、聞くことも、信じるためのステップとなっています。考えることも、信じる助けにはなりますが、聖書の素材がなければ、キリストを信じるには相当な時間を要し、救い主にたどり着かないこともあるでしょう。

 

 35節から「あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」とは、麦の収穫のことにかけて、霊的収穫のことを言っています。つまり、人々の救いのことを言っています。サマリアの女性がその一人、そして、彼女がキリストではないでしょうかと町の人々に言うと、他にもキリストを信じる人が起こされる。みんなキリストの到来を求めていたわけです。

 

 耕作物が収穫を迎えるには、種を蒔き、芽が出て、茎が伸び、実を結ぶまで、相当の時間がかかることです。水がぶどう酒になるにも、相当の時間がかかります。人がキリストを知るにも相当な時間がかかると私たちは思っているかもしれません。人間的な判断で、あの人はまだまだとか、あの人はもうそろそろとか、こちらが思うことがある。しかし、サマリアの女はキリストに出会った即日、信仰に到る。十字架にかけられていた強盗の一人も当日。聖書を見ると、出会って、すぐ信じる人が多い。それは、キリストに直接会っているということもあるでしょうし、キリストの偉大さに触れると、他のことは些末なことになるのかもしれません。

 

 私たちは、物の表は見れても、中は見れない。それで通常は色づきや大きさで、収穫までまだ四カ月あるな考える。しかし、人々の中には、主イエスをキリストとして信じ受け入れる状態になっている人もいる。36節の蒔く者と刈る者とは、種を蒔く者が畑の所有者か、小作人で、刈る者は収穫時に報酬を得て手伝う者が刈る者です。収穫物は種を蒔いた者の物となり喜び、手伝う者も収穫と報酬を喜ぶ。他の箇所では種は神のことば。種の蒔かれたところはそれぞれの心。神のことばを聞いて、実を結べば、種を蒔いた神も、種を蒔かれた人も喜びに到る。

 

 主イエスの弟子たちが、キリストを信じる人々を集めたとしても、弟子たちが苦労して。種を蒔いたのではないこともある。だけど、収穫に立ち会うことはある。他の人たちがキリストを証し、祈り、愛を示し、信仰のスタートには別な人が立ち会うということもある。しかし、人が神様に立ち返るということは、どちらにとっても大きな喜びです。主イエスが「わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」とおっしゃるのは確かです。

 

 さて、マタイの福音書9章35-38節に、「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。そこでイエスは弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」と言われます。

 

2024414日 主日礼拝 ヨハネの福音書41-26節「井戸で女に話しかける主イエス」

 

 ヨハネ41節、パリサイ人たちが、イエス様やヨハネの様子を把握しています。すごい人たちと思っていたか、気にかかるというか、考えようによっては厄介者だったかもしれません。逆に、イエス様は、この時はパリサイ人たちとの関りを避けてガリラヤに向かいます。新改訳聖書2017では、地図12で「使徒たちによる初期の宣教」が記載されていますが、第3版まではキリストの初期旅行、ガリラヤ伝道、キリストの後期伝道の3つの地図が掲載されています。これらを見るとエルサレムからサマリヤを通過して、ガリラヤに行く。尾根伝いで、最短距離となる。しかし、ユダヤ人は、外国人と結婚して、12部族の純潔を守らなかった北イスラエルの人々、サマリア人との交流を避け、サマリアの町を通過することも忌避していました。

 

 ある意味、イエス様は伝統に縛られないお方。別な意味で、旅程を短縮するので合理的です。5節スカルというサマリアの町のヤコブの井戸のところで、イエス様は旅の疲れで、お座りになった。第6時は大体正午です。十字架上でのイエス様の肉体の痛み、のどの渇き、お昼ごろとの関係でこの箇所を見る人もいます。時期は不明ですが、一般の人は暑い真昼を避け、朝晩の過ごしやすい時に作業をしていたとすると、この時間帯は、みんなは家の中にいる。だから、人に会いたくない人にとっては、暑くても活動しやすい時間帯となる。

 

 サマリアには他にも大勢の女性がいましたが、「サマリアの女」と言うとヨハネの4章に出て来るこの女性を思い浮かべます。この女性は人を避けて暮らしていた女性でした。イエス様が井戸のところにいても気にしなかったのは、男性が女性に声をかけるのは、よろしくないとされていたからです。しかも、この女性から見て、イエス様がユダヤ人だということが分かる特徴を持っていたのでしょう。この辺じゃ見かけない顔と言うのか、真昼間に自宅ではなく外にいるというのは旅人かとか。だから、この女性からすると、イエス様に何かご事情があってそこに座っているが、近寄っても、声をかけられることはないと思いつつ、井戸に近づいた。

 

 すると7節、あろうことか、主イエスがこの女性に「わたしに水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。9節、そのサマリアの女は「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」と言った。

 

 イエス様は単に疲れて、のどが渇いて、この女性に水お求めたのか。いや、この機会を用いて、関わってくださっている。10節、「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」と言う。

 

 もちろん、この女性は、神様の賜物も知らず、水を求めていた方がどなたかもわからなかった。何も知らなかったので、求めることもなかった。それでも、イエス様が関わってくださった。

 

 「その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」とは、主イエスが私に水をくれることだとして、この女性の思いは、「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。」と言う。彼女にすれば、この井戸を掘りあてたヤコブは偉大ですが、あなた様は、ヤコブより偉大なのでしょうかと聞く。

 

 13節もイエス様は「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」と言って、のどや身体を潤す水ではなく、心の中で湧き出る泉を言っています。それは霊的いのち、聖霊の働き、そこからもたらされる喜びや力も含まれるでしょう。神様との生き生きした関係を言っています。しかしこの女性は15節、「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」と言う。思考のレベルが違う。それでも、イエス様は関わってくださる。

 

 イエス様は彼女に「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言う。なぜ、夫が来なければならないのか。この女性との対話のために語られた。「私には夫がいません。」イエス様は「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」と言われた。会った最初に、こんなことを言われると心が閉じる。しかし、やり取りの中で、彼女が人を避けている事情も、そしてイエス様がこの町に来られた理由も、この女性やその周りの人々がどうなっていくか、明らかになっていきます。

 

 それで彼女は「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。」と言う。列王記第一に、ソロモンの子レハブアムがこれまでの税金に対して、軽減せず、むしろ増加すると宣言し、ヤロブアムのリードのもと北の10部族が離脱します。神殿がエルサレムにしかないので、またエルサレムに行くのではないかと懸念し、シェケム、後のサマリアを中心とし、金の子牛2つを作りベテルとダンに安置しました。それでサマリア人はその地で神様を礼拝しますが、これも対立の原因となりました。この問題に対して、21節、イエス様はどこで礼拝するかではなく、だれを礼拝するか、どのように礼拝するかを教えます。彼女は聖書そのものが教えることよりも、伝統に従っていました。素晴らしい伝統も、どこかで人の考えが混じり込んでしまう。だから、礼拝や信仰についてに大切なのは、神様ご自身がご自身について記されている聖書、そして、23節、御霊と真理です。別訳では「霊とまこと」です。それがイエス様の来臨以降、続けられています。

 

 この女性は「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。」と言います。そして、イエスは「あなたと話しているこのわたしがそれです。」と語られる。「エゴ― エイミー」。すごい方に、すごいかたちでお会いします。そして、目の前のユダヤ人の男性から預言者、そしてやがて来られるキリストと呼ばれるメシアに対面します。

 

 

 主イエスは、わざわざサマリヤに来られた。ある面、非常識な時間帯に来られた。本人が周りの目を避けて行動していたこの女性に会われた。もちろん、イエス様はこの女性がどういう女性か、そのこともよくご存知で出会ってくださった。私たちがイエス様にお会いしたのは、別な時、別な場所、別な形であったことを思います。それぞれの状況も違う。しかし、イエス様は私たちからご自身を隠されたのではなく、現わしてくださり、私たちが信じることができるようにして下さった。本当に感謝なことです。造り主にして救い主なる主イエスとの出会いは、御霊と真理の礼拝へと私たちを導きます。もちろん、御霊と真理の礼拝を通して、私たちは神の御前に進み、主の臨在に包まれます。


202447日 主日礼拝 ペテロの手紙第一 25節「あなたがた自身も」

 

 新しい年度が始まり一週間となりました。新しい学校、新しい職場、新しい環境で過ごされている方もいると思います。緊張もあるかもしれません。疲れもあるかもしれません。主の導きと支えを祈ります。

 

 様々な目標に向かって頑張っている方もいると思います。まずはスタートラインに立ち、ゴールを目指す。ところが、スタートラインに立つことが当面の目標であるのは良いのですが、そこが最終目標になると先に進めなくなります。学校は通過点です。会社は生活を補います。

 

 「クリスチャンになる」というのも、ゴールとは言えない。「あの人のようなクリスチャンになりたい」と思う人もいるし、「あいつがクリスチャンなら、地獄に行っても、俺はならない」と言われることもあります。当然、「あの人のようなクリスチャンになりたい」と思っても、洗礼を受けただけではなれない。聖書に教えられ、祈り、祈られ、主に導かれ、一瞬ではすまない時間の積み重ねが必要です。そして、「あいつが」という人も、信仰の姿がわかっていない。

 

 というのは、救われるのは、善人が救われるのではなく、罪人が救われる。そして、罪人が善人になったら救われるのではなく、キリストが、死ぬべき罪人のために、身代わりに十字架にかかってくださったことを、感謝しつつ、自分の罪を悔い改め、主イエスに頼ると、救われ、そして、キリストに似ていくもので、これも一瞬では完成しない。

 

 教会に来られる方の中に、人生の目的を求めて、集われ、信仰を持つ人もいれば、離れていく人もいる。教会に留まる人は、人生の意味が分かった人々と言えます。神様に出会い、神様とともに歩むのが人生だと。その通りですが、例えば、神様と一緒の人生は、つらいこと、悲しいことはなく、いつも楽しいものだと決め込むと、失望し、力を失う。なぜなら、ヤコブの手紙125節に「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。」とあり、神様とともに歩む者にも、神様が私たちを「何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者と」するために、試練を通されるからです。

 

 今年の年間聖句をペテロの手紙第一25節の「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」としました。ペテロは3年半イエス様とともに歩みました。比較的、思ったことを言う、大胆な人物でしたが、誤解や失敗も目立つ人物でした。しかし、このペテロがやがて教会のリーダーになる。13節には、キリストにあって新しく生まれること、生ける望みを持つこと、5節で救いの獲得を述べますが、6節に様々な試練の中で悲しまなければならないとも述べます。しかし7-9節「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」と、自分の経験に重ねて語っています。9節にはすでに得た救い、5節ではやがていただく救いについて語ります。キリスト教がわかりづらいのはこの「すでに」と「やがて」の2面があるからです。しかし、大概のことにもスタートとゴールはあります。

 

 ペテロの手紙は、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している」クリスチャンに向けて書かれていますが、2章では「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」と語ります。クリスチャンとは善良であろうと勝手に決めてしまいやすいのですが、悪意、偽り、偽善やねたみ、悪口を抱いてもなお、クリスチャンです。ただし、そのままで良いというのではなく、それらを捨てて、神のことばである聖書を慕い求め、霊的に成長しなさいと。救われるか救われないか、最後まで分からないというのではなく、救いにふさわしく、整えられなさいという意味です。

 

 私たちは主イエスがいつくしみ深い方であることを味わっていますか。罪人の救いのために、罪のないイエス様が十字架にかかってくださったのは最大のいつくしみです。霊的成長がゆっくりで、ペテロと同じく、いやペテロ以上に誤解や失敗があっても、お見捨てにならないのもイエス様のいつくしみ深さです。イエス様は、同族民のユダヤ人に、いつくしみではなく、嫉妬の故に十字架にかけられ、殺されました。祭司長たちにとっては、あんな奴いらないと捨てられた。しかし、イエス様は「人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。」

 

5節「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となり」なさいではなく、「なります」と語ります。それが神様の御旨です。「あなたがた自身も」とは、「生ける石として霊の家に築き上げられ」ということなのか、「人には捨てられたが神には選ばれた」ということなのか。どちらも含むと思います。いや、自分自身が自分を捨ててしまったこともあるかもしれません。「こんな自分、何をやっても駄目だ。人にも親にも、誰にも喜んでもらえない」と。自分が自分自身を喜んでいないのだと。

 

 

幸いなのは、自分や人が捨てようが、あなたがた自身も「神には選ばれた、生ける石です。」神様は、あなたと私を用いて、主の教会を建て上げるのです。神様には私たちも大切な石です。9節にも神様の預言的宣言があります。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」こちらは断言です。ではパウロが書いたローマ人への手紙121節「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。」これと矛盾するのでしょうか。前者は事実をのべ、後者は私たちにその自覚、決意を求めるものであります。ここも聖書の特徴ですが、聖書は本来あるべき姿を示しつつ、それら向けて、歩めるように私たちを励まします。つまり、いつも神様の近くにいる祭司であり、神様と人々の仲介者として祭司であるという事実を示し、この自覚をもって歩むように示しています。「自分は献身していない」と思う人もいるかもしれない。しかし、神様に背くことを捨て、神様に贖っていただいたなら、私たちの所有者はもはや私ではなく、すでに神様なのです。直接献身とか、間接献身という言い方もありますが、いずれも神様に喜んで仕えるように促しています。


2024331日 イースターファミリー礼拝 マタイの福音書27622815

「主イエスのよみがえり」

 

 イースターおめでとうございます。「イースター」という言葉は聖書には出てきませんが、イエス様がよみがえられたことを言います。そのことは聖書に書かれています。

 

 「よみがえる」とは、「死んだ人が、また息を吹き返す。生き返る」ことを言います。死んだ人は黄泉の国に行く。そこから戻ってくることだとも言われます。「よみがえる」はギリシア語はエゲイローです。ただ、「起こす、立たせる」という意味もあって、寝てた人を起こすという意味にも取れますが、「死人の中から」起こすとは、死んでいた人をよみがえらせるということです。

 

 十字架にかけるとは、殺すことを意味していました。2750節に「しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。」とあり、死んだことを意味します。マルコでは1537節「しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた」とありますし、アリマタヤのヨセフが、総督ピラトに、イエス様のお身体を下げ渡してくださいと願い、「ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いた。」とあります。そもそも、死んでいない人を介抱するのはわかりますが、お墓に入れちゃうのは失礼ですし、亜麻布をぐるぐる巻きつけると重くて、かろうじて生きていても死んでしまいます。イエス様は、おっしゃっていた通り、すべての人の罪のために、身代わりに死んでくださいました。

 

 祭司長とパリサイ人は、自分たちの姿を非難し、人々の注目を浴びていたイエス様に嫉妬していました。それで、邪魔者イエスを殺してしまいましたが、イエス様は私たちを救うために十字架にかかられました。

 

 イエス様はご自分が三日後によみがえると言っていました。そんなことはないと祭司長たちとパリサイ人たちは考えていました。精々、できても、弟子たちが、死んだ主イエスの身体を墓から盗み出して、「私たちの主はよみがえりました」と騒ぐことぐらいだろうと思っていました。だから、お墓に番兵をつけて、盗まれないように見張らせていました。

 

 イエス様が十字架にかかられたのは金曜日の朝9時で、息を引き取られたのが午後3時。日が暮れたら、安息日のため、働くことを禁じられていました。だから、イエス様の埋葬は仮でした。日曜日の朝早く、日が出て、マグダラのマリアともう一人のマリアは、イエス様のお身体に、改めて、丁寧な埋葬の施しをしようとして、イエス様が入れられたお墓に行きました。

 

 「すると、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからです」。主の使いの姿は「稲妻のようで、衣は雪のように白かった。」とあります。ローマの番兵は大きな地震で恐ろしかったのか、主の使いを見て震え上がったのか、死人のようになってしまいました。

 

御使いは女たちに「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」と言いました。

 

二人のマリアたちは「恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。」とあります。死んだイエス様がよみがえられたというと、なんだか恐ろしかった。でもとっても喜んだ。

 

福音書によっては、書き方が違って、イエス様を園の管理人だと思ったとも記していますが、マタイでは、イエス様がマリアたちに「おはよう」と言った。ギリシャ語では「カイレテ」ですが「喜ぶ」という言葉の命令形で、「喜びなさい」と言いいます。人と会う時はようこそ、おはよう、こんにちは、今晩は、ごきげんよう、別れるときはさようなら、ほかにおめでとう、万歳にもなります。今は朝だから「おはよう」ですが、別な訳でもいいと思います。実はマタイの2649節では、同じ言葉が、ユダからイエス様に発せられ「こんばんは」となっています。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。イエス様もマリアたちに「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」と言います。

 

私たちは人々に教えたり、病気を癒したりされたイエス様に会ってはいません。十字架にかかられて死なれたイエス様を見ていません。しかし、罪と死に対して勝利し、よみがえられたイエス様を信じています。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」は、マタイの福音書の最後の3節の大宣教命令に重なっています。

 

イエス様の身体が盗まれないように見張りをしていた番兵たちの何人かは、起こったことすべてを祭司長たちに報告します。すなわち、地震があり、主の使いが現れ、イエス様がよみがえられたこと。祭司長たちは長老たちとともに集まって話し合いをし、兵士たちにたくさんの金を渡し、嘘をつかせます。「弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行ったと言いなさい。」と。番兵は寝てはいけない。寝ていたら誰が盗んだかわからない。そもそも弟子たちがイエス様の遺体を盗まないように番をしていたのに、武器を持たない弟子たちに遺体を盗まれたのであれば、番兵は全くの役立たずとなり、処罰を受ける。だから、「もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」と約束します。しかし、祭司長たちと長老たちも、イエス様がよみがえられたことを知ります。そして、イエス様がよみがえられたという事実を隠します。そして、ユダヤ人の間では、十字架にかけられたイエスの体は弟子が盗んだという話が広まりましたが、誰が死んだ人のからだを隠し持つのでしょうか。やがて祭司たち、長老たち、ユダヤ人の中からも、人のために十字架にかかられ、よみがえられた救い主イエス・キリストを信じる人が起こされていきます。

 

 

私たちも、私たちを愛し、私のために十字架にかかり、罪を取り除き、永遠のいのちを与えられた主イエス様を信じることができます。感謝です。カイレテ。主のよみがえりを喜びましょう。


2024324日 伝道礼拝 申命記281-14「祝福の条件」

 

 本日は、伝道礼拝にようこそお越しくださいました。

 

 世の中に存在するものは、存在する目的があります。例えば、病院は病気やけがの人を治す。その予防もあります。警察は犯罪者を捕まえる。防犯もあります。消防は火を消す、病人を運ぶ。こちらも、防火、防災も含まれます。他にも、意義や目的を持ちます。

 

 さて、教会は何のために存在するのか。まずは、救い主イエス・キリストを世界中に指し示すこと。そして、このイエス・キリストと、このイエス・キリストを送ってくださった父なる神と、イエス・キリストに代わって、今や私たちとともにおられる聖霊をたたえるために存在しています。もちろん、神様について書かれている聖書を学びます。

 

 ときどき、教会に、相談の電話や訪問もあります。先日は、キリスト教まがいの宗教についてのお問い合わせもありました。人によっては、教会は、さほど関りの必要性を覚えないかもしれないですね。ある人にとっては結婚式や葬儀で教会に来たことがあるかもしれません。

 

 これも人によって違いますが、教会を永遠の視点で見る人、人生の視点で見る人もいれば、クリスマスやイースターなど季節の行事で見る人、一週間や毎日の視点で見る人、この一瞬の課題で見る人もいます。私は、どの視点も、大切だと思います。

 

 また、人の側から神様の方向を見ることもあれば、神様の側から人の方向を見ることもありますが、教会では、聖書を中心に、神様の側から人に語られていることに目を向け、耳を傾けることが多いと思います。

 

通常は、私たちは、自分と自分の家族、自分と友達、自分と会社や学校の人、地域の人、私たち日本人と外国人というように、人間同士のことが多いかもしれません。もちろん、そこにペットや自然などが入ってもいいのですが、万物の創造者が相手になることはあるでしょうか。それはお寺や神社に祭られている存在ではなく、自然そのものでもなく、私たちや宇宙や地球の中にあるすべてのものが存在するきっかけになった造り主のことです。

 

人間は健康で、自分のやりたいことができたら幸せだと思っている。しかし、聖書にある祝福は、神様が私たちに求められることに応じることが祝福の前提になることを教えます。

 

ところが、私たち人間は、この造り主の存在をなかなか認めることができない。それは、最初の人間アダムの罪のため、神を認められない。自らに罪の影響があることも認められない。神様との生きた関係を罪の故に持てない。神に従うことも受け入れられない。罪によって、人間はそれぞれ個人の自由に生きられると信じているから。そして、霊的に死んだままであることも気づかず、肉体的に死を迎えることも自然だと信じ、死後の世界を信じない。

 

神様は、罪の問題解決に、ご自分の御子イエス・キリストをこの世に遣わされた。イエス・キリストは御父の御旨に従い、人々の罪のために十字架の上で死なれ、罪を負われた。そして、イエス・キリストを自分の救い主と信じる者に、罪の赦しと永遠のいのちを与えられる。その証しとしてのよみがえりであり、御父への従順故のよみがえりです。

 

にわかには、信じがたいことかもしれないです。しかし、聖書に書いてあることであり、教会で教えられてきたことですし、私自身心から信じていることてもあります。そして、教会の歴史では、この教えの確かさを、命をかけて守ってきました。

 

今日の聖書箇所、申命記の28章には祝福とのろいが書かれています。簡単に言えば聞き従えば祝福、無視すればのろいです。ただ、神様がおられないのであれば、祝福ものろいもない。それはある意味、盲信、盲従と言えます。しかし、神様がおられるのに、無視すると、大変失礼ですとか、祝福が受けられないどころか、のろわれてしまう。

 

私は、脅したり、恐怖心を抱かせて信じさせようとは思いません。人間の理性、知性を用いればいいと思います。ただ、罪によって、霊的に死んでいるのであれば、神様のことを語っても、人間の理性や知性は機能するのでしょうか。皆さんが私を笑うこともありうる。笑われても一向に構いませんが、救い、祝福、幸いを失っていただきたくないと思うのは、本心です。

 

もし、世界の人々が、自分自身の造り主に目を向け、聞き従えば、世界は変わり、素晴らしくなる。ここにある「あなた」はひとりひとりの個人に対して、言われていることでもあり、また、イスラエルの民族、国家に対しても言われ、全世界の人々と国々に対しても語られています。人々はものを求めて都市に集まりますが、都市は貧富の差が激しい。しかし、神に従う者は、3節、町にあっても、野にあっても祝福される。子どもも家畜も収穫も増える。

 

 敵が向かってきても、敵が逃げ去る。すべての働きが報われる。神様の大切な存在として、神様の前に立たせていただける。アダムは罪の故に、神様から隠れていました。主の名というのは、イエス・キリストということです。あなたに主の名がつけられるとは、クリスチャン、キリスト者ということ。すると人々はあなたを恐れる。あなたにびくびくするというより、敬意を示すということです。キリストの守りや祝福があるから。

 

主とは唯一の神様のことですが、12節「主はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。私が今日あなたに命じる、あなたの神、主の命令に聞き従い、守り行うなら、主はあなたをかしらとし、尾とはされない。あなたはただ上になり、下になることはない。私が今日あなたがたに命じるこのすべてのことばから右や左に外れ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。」

 

聖書は私たちにいつも、神のことばを信じて従うか否かを問います。言い方は違いますが最初の人アダムも、エデンの園のどの木からでも思いのままとって食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならないと命じられました。イスラエルの王たちも、神様のおきてに従って歩むことが祝福の条件でした。現代の私たちに求められることも、簡単に言えば、造り主である神様とともに歩むことです。それを実現するために、御子イエス・キリストを私たちの救い主とし、助け主、聖霊の力をいただいて歩みましょう。

 

 

 


2024312日 主日礼拝 ヨハネの福音書322-36「あの方は盛んになり」

 

 22節の「その後」とは、ニコデモとの対談の後を指します。イエス様一行が向かわれた「ユダヤの地」とあっても、場所や方向が特定できませんが、バプテスマを授けているので、ヨルダン川周辺だと思われます。また、ヨハネがいたアイノンも、サリムも特定できないのですが、サマリアの北東部、スクトポリスの南方約10キロか、シェケムの東5.5キロの地と言われます。アイノンはヘブル語のアイン、泉を指していると思われます。なので、こちらはヨルダン川に限定されません。

 

 25節、ヨハネの弟子たちが、ユダヤ人ときよめについて論争しますが、一般のユダヤ人と言うより、祭司や律法学者たちと思われます。また、ヨハネが洗礼を授けたイエス様とその一行が、バプテスマを行なっており、イエス様の方が盛況だった。その状況に、ヨハネの弟子たちは平常心ではいられなかった。

 

 受洗者が多い、少ないで、ヨハネとイエス様の評価が出るわけではありませんが、ヨハネは「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。」という。バプテスマのヨハネの働き、役割、使命は、キリストの前に、その道備えするということでした。洗礼はヨハネの専売特許ではない。

 

 ヨハネがぶれないのは、28節、「私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです」という自覚です。そう言って来たことをヨハネの弟子も、よく聞いていました。

 

 結婚式で中心になるのは花嫁と花婿ですが、現代は、花嫁がややというか、ほぼ中心のような感じがします。イエス様の時代は花婿が中心でした。ましてや友人ではない。29節でヨハネが言う花婿とは主イエスで、花婿の友人はヨハネで、ここでも自分は中心ではないことを語ります。ここに妬みや僻みはない。花婿にスポットライトが当てられることを喜ぶ。花婿の友人は花嫁に花婿を紹介し、婚礼に必要な一切の準備をし、婚約をまとめて、あとは花婿の声を聞くまで花嫁の部屋の前に立って待つとのこと。現代ではもう仲人という働きは少ないのかもしれませんが、ヨハネは仲人と同じ役割を担っていた。それは信頼されている証しであり、光栄です。

 

 30節、「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」ここも聞く人によっては、屈辱的、耐えがたく、哀愁が漂う。しかし、ある意味、親も先生もマネージャーなども、自分より年下の子ども、生徒、選手を育て、その活躍を喜ぶ。余談ですが、政治家の関心はどこに、何に向けられているか。当人によって、時代によって違うでしょう。自分自身や金品に向いている場合もあるでしょう。かつての立憲君主国の首相はじめ各大臣は、イギリスも日本も君主に向けられていた。今や日本においては、憲法上、国民主権ですから国民全体に向けられるべきですが、どうでしょうか。モーセやダビデは主権者である神様に向けられていました。30節、ヨハネを暁の明星、イエス様を太陽とすると、イエス様の活動と共に、ヨハネの働きは薄れる。そして、先駆けとして、イエス様に道を譲ることを語ります。

 

 31節でヨハネはイエス様について「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。」と言い、自分を含め、人間について「地から出る者は地に属し、地のことを話す。」と言い、改めてイエス様について「天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」という。イエス様は神様であり、私たちは神様に造られた人間であるという自覚。

 

 32節、現状分析が行われ、イエス様について「この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。」由々しき事態。預言者を遣わしても聞きいれないので、御子を遣わしたのに、その御子をも受け入れない。

 

 一方、33節の「その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。」とは、主イエスの語られることを受け入れる者であり、神様のご真実を認める。34節「神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。」イエス様は神様であり、神様のことばを語られる。御霊の働きも豊かにある。

 

 35節、父は御子を愛しておられるが、御子も父を愛しておられる。また、父は人間を愛しておられ、父に従う者に、御子と共に地を治める権限をお与えになります。

 

 3136節は16-21節の繰り返しとも言えます。36節は18節に対応しますが、「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」とあります。

 

 さて、24節に戻って、「ヨハネは、まだ投獄されていなかった。」とありますが、ルカの福音書319-20節では、ヨハネが投獄されたことを記しています。「しかし領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロディアのことと、自分が行った悪事のすべてをヨハネに非難されたので、すべての悪事にもう一つ悪事を加え、ヨハネを牢に閉じ込めた。」と。私たちは、悪や不正を見たとき、どうするでしょう。悪を為す者に、にらまれたり、恨まれたりするから触れないでおくでしょうか。自分の務めではないと言って、放っておくでしょうか。

 

伝道者の書7章16節に「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。」とあり、一見、見てみない振りが求められるかのように思われます。

 

 車や家ならばシェアしたり、売り払うことができても、誰かの配偶者をシェアすることも、誰かの配偶者を奪い取ることも許されません。それは高い身分であろうと変わりません。しかし、その事実を知っていても、それを本人に言うと、自分に危害が及ぶので、いけないことを「いけない」と言えないこともあるかもしれません。それでも、旧約の預言者たち、そしてバプテスマのヨハネは、自分が不利になっても、いや身の危険を帯びても、言うべきことを言った。それが職務である、役割であると認識していた。

 

 

 賢い生き方は後先を考えることも一つです。しかし、正しい生き方は、後先を考えるのではなく、神様の御旨を求めること。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」とは、やせ我慢でも、形式的にでもなく、ヨハネの生き方でした。ヨハネが求めたのは「ヨハネは素晴らしい」と自分が賞賛されることではなく、神の御子であるのに、人となって十字架にかかられ、人を贖うイエス様に人々の目が向けられ、信仰を持ち、永遠のいのちを持つことです。


2024310日 主日礼拝 ヨハネの福音書31-21「ニコデモの夜の訪問」

 

 引っ越しや結婚のあいさつ文に「お近くにお越しの際はぜひお立ち寄りください」というものがあります。北海道では出来額面通りですが、京都出身の神学校の同級生が、「招かれてもすぐ行っちゃだめで、3回招かれて、『そうですか。では。』とならないとはしたない」とのこと。同じ日本で、同じ言葉でも、意味合いが違います。聖書のことばは、その文化の人にしっかり理解してもらえるように翻訳されているので、額面通りです。

 

 夜の訪問客はどうなのか。ルカの福音書115-8節に、イエス様の語られたたとえ話で、「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。」と。遠くからの友人は受け入れられても、近所の友達は、できれば日中にして用を言いつけて欲しいということでしょうか。しかし、突然現れた友人に対応できないから助けてほしいというわけです。神様は24時間365日どんな小さなことも受け止めてくださいます。

 

 さて、ニコデモはこのヨハネの福音書の3章、7章、19章に出てきます。パリサイ人はハシディーム派(敬虔主義者)の人々とつながりがあると思われます。聖書を熱心に調べる人たちであった。そして、厳格でした。神様のご支配を信じ、死人のよみがえりも信じ、御使い、終末、そしてメシアの到来を信じていました。宮廷の資料では6,000人いた。パリサイ派に帰依した人も加えると25,000人、そのうち2万人がエルサレムに住んでいました。ユダヤ人の議会は70名または71名で構成されます。そういう意味で、ニコデモはユダヤ人の代表と言える人物でした。

 

 そのニコデモが夜、イエス様のもとを訪れたのは、立場上、隠したかったからと言われます。しかし、日中、業務が多忙で、その後の訪問であったとも言えます。また、闇の中に生きる人間が光を求める姿であると言われます。いずれにしても、社会的地位があろうと、多忙であろうと、主イエスへの関心を持ち、情報を得、直接、話を聞きたいと願った。イエス様に対して、「ラビ」という。そして、「私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」という。これは何のことか。水をぶどう酒にかえたことや他のことも含まれると思います。

 

 ニコデモは主イエスを神のもとから来られた教師、神がともにおられるからこそできる行いを認めます。もし、おべっかであれば、主イエスは見抜くでしょうし、忙しいニコデモが主イエスに会いに来る意味がない。主は、大切なことであるから「まことに、まことに、あなたに言います。」と言い、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」という。脚注には「上から」とあり、「再び」という意味もあり、新改訳2017は「新しく」と訳しています。通常、新しく生まれるには、生まれ変わるか、ニコデモが考えたように、「もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」となります。イエス様は、ニコデモの問いに対して、もったいぶらず、「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」という。

 

 新しく生まれ変わることが、神の国を見るために必要で、水と御霊によって生まれたなら、神の国に入ることを伝えます。水は悔い改めのバプテスマで、御霊は新生のことです。言い換えると罪の赦し・きよめと霊的賜物・聖霊がその人のうちに住まわれること。

 

 私たち人間は、肉によって生まれた者です。アダムの罪によって、霊が死んだ者です。しかし、御霊によって、つまり聖霊なる神によって、霊的に生まれることができます。

 

 「生まれ変わりたいな」と思う人は相当数いるのではないでしょうか。しかし、人は自分の意志で、誕生することも、生まれ変わることもできない。

 

 8節の風も御霊もギリシア語で言えばいずれも、プネウマです。なので、風と訳したらいいのか、御霊と訳したらいいのか。風と御霊を対比しているのか、あるいは御霊は思いのまま働かれるということを指しているのか。

 

 7節、ニコデモの顔から、理解しがたい様子がうかがえた。本人も9節「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」と聞く。イエス様は、10節、「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。」と言われても、わからないものはわからない。教えてもらわないとわからない。いや、聞いたこともなく、見たこともないことは、教えてもらってもわからないこともある。この場合、証言を信じるしかない。ある意味、信じるとは難しいこともあれば、騙されることもある。だから、「信じられない」こともある。しかし、信じることがなければ、人間関係も、神様と人間の関係も成り立たない。

 

 では、信じないのが安全なのか。エジプト脱出後の荒野の生活に堪えられなくなり、民は神様とモーセに逆らったとき、神様は蛇を送られて多くの人が死にました。その時、悔い改めた者たちがいて、青銅の蛇を仰ぎ見た者が生き延びました。(WHO世界保健機関の旗に蛇が描かれているのは民数記21章のこの出来事を表しています。)そして、十字架にかけられる主イエスを仰ぎ見る者が救われる。私たちの罪の身代わりに十字架にかかられる主を救い主と信じて救われる。それは、神様が遣わされた御子イエス・キリストを信じる者がみな、イエス様の功績によって、永遠のいのちを持つためです。

 

 

 このことをヨハネの福音書316節では「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と表しますが、続きがあります。イエス様が世に来られたことがさばきであり、イエス様の出現は、世の人々の生活にひとつの危機・迫りをもたらし、人々は光に来るか暗黒に留まるか、決めなければなりません。信仰とは、真理を実践することであり、それは、光に従い、光に引き寄せられることであり、神様に吟味されることを喜びます。


202433日 主日礼拝 ヨハネの福音書213-25「宮きよめ」

 

 イエス様の公生涯の年数は、過ぎ越しの祭りがヨハネの福音書に記されているものを参考にしています。13節の過越しの祭りを第1年目と数えます。「イエスは」とありますが、17節を見ると、弟子たちもいました。ただ、これから見るように、弟子たちも、人々も、その時イエス様がおっしゃられた言葉の意味を理解していなかった。そういうことは、私たちにもあります。

 

 アブラハムの時代も祭壇が築かれ、動物を神様に捧げるということがありました。それは契約の時、神様への礼拝や感謝を表しています。モーセの時代は、祭儀が整えられ、幕屋が設けられ、贖罪のささげ物もささげられました。罪の自覚があれば、速やかに、罪の自覚がでない場合でも、感謝を表して、折々に動物がささげられています。そして、貧しい家庭の場合は羊に代わって鳩が用いられることもありました。

 

 カナンの地に入ってからも、どこにいても、捧げるものを携えて、幕屋のあるシロへ赴く。ダビデの神様への献身の思いが、戦いで血を流していないダビデの子ソロモンを通して、エルサレムに大きな神殿が築かれます。その時もやはり、みな、ささげものを携えて、エルサレムに行きました。

 

 ソロモンが7年かけて築いた最初の神殿はそののちバビロンに敗れて破壊されます。エズラ・ネヘミヤが修復した第2神殿は、ゼルバベル神殿と言われますが、紀元前37年にローマのポンペウスによって破壊され、その後、ヘロデ大王が、46年かけて築いた第3神殿はヘロデ神殿と言われ、イエス様当時のものです。実は、これも紀元70年にローマのティトゥスに破壊されます。正確には紀元前20年から作り始められ、完成が紀元63年で、83年かけたとのこと。どの神殿もサイズは一緒。ただし、ソロモンのものが集中工事であったため、一番短期間で、一番豪華であったであろうとのこと。

 

 さて、イエス様の時代、ローマの支配下にありつつも、ローマに逆らわなければ、平和に過ごすことができる。平和だと、戦費など無駄な支出はない。無駄がないと余裕もできる。だんだん人々は安楽な生活に傾く。つまり、神殿のささげものも、わざわざ、地元から家畜を運搬しなくても、宮の中で動物を買えば、楽です。ところが商売人は、ローマでの貨幣ではなく、ユダヤ地方の貨幣に両替します。それは祭司推奨というか、結託がありました。双方への利益誘導です。

 

 イエス様は苦労して、家畜を携えてこないことを断じているのではなく、宮において、不当に利益をむさぼっている商売人と両替人を断じているというより、宮における両替と商売そのものを断じています。

 

 細縄でむちを作って、羊も牛も宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒す行為は、神の子らしくない行為だと私たちは思うかもしれません。しかし、宮で両替したり、家畜を売ることをイエス様は許さない。

 

 母教会で、新会堂移転後に、教会を知ってもらうために、イエス様をお伝えするために、そして、食糧難で苦しんでいる人々のために、バザーを開催しました。そしたら、気前よく、どんどん買ってくれる中年の男性がいた。売り上げだけを考えると嬉しいことですが、実はその人は、リサイクルショップの経営者で、安いバザーの品物を、言わば、仕入れて行ったわけです。私たちは、地域の皆さんに喜んでもらおうと、いろいろ作ったり、提供したのですが、うまいところ、ごっそり、取られていった。これは空しかった。バザーに来てくれた他の家族や友人も、商品がなくがっかりした。ある意味、その人の正体を見破ることも、叱ることもできなかった。

 

 イエス様は、鳩を売っている者たちに「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」と言われた。弟子たちは、そんなことを言えば、問題が起こるとわかっていた。そして、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。

 

18節のユダヤ人は、祭司長たち、指導層の人々です。彼らは「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」という。それも、イエス様の言うことやることは至極ごもっとも思いつつも、宮の中で商売している者たちから、売り上げの一部を得ていたからです。

 

ユダヤ人たちが言いたいのは、「どういう権威、権限をもって、こんなことをする」のかという問い。しるしは何かと問われ、イエス様は「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」と言います。「わたしを殺してみなさい。わたしは三日目によみがえります」であれば、「この神殿を壊してみなさい」よりは、わかってもらえたかもしれません。しかし、ユダヤ人たちは「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」と言い、かみ合っていません。

 

 イエス様が「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」と言ってたことを、3年経て、弟子たちは真の意味を知ることになります。イエス様は弟子たちにご自分が祭司長たちにつかまり、苦しみを受け、三日目によみがえることをマタイとルカの福音書では各3回予告していますが、ヨハネではここだけです。

 

 22節、弟子たちでさえも、聖書の預言やイエス様の発言を事後でなければ信じられないことを語ります。23節「過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。」とある、その具体的なことは記されていません。

 

 「しるし」は、人々を、つまり当時の人も、聖書を読む人も含め、「イエスが神の子キリストである」との信仰に導くためのものです。しかし、多くの人々は、その「しるし」の真の意味と目的を十分に理解することなく、うわべでイエス様を信じている。イエス様は「人のうちに何があるかを知っておられた」。人々の信仰は、イエス様に見倣って、完全な信仰となるために深められる必要があった。イエス様は人々の不完全な信仰が完全な信仰に成長するのを忍耐をもって待たれることも、これからの出来事を通して教えられます。

 

 

私たち、主イエスを信じた者が、いまだ地上に置かれているのは、人々への伝道のためであることはもちろんですが、信仰の成長のためであることも確かです。あのおっちょこちょいペテロも、教会のリーダーとして成長していくので、与えられている時間・人生は実に尊いものです。


2024225日 伝道礼拝 ヨハネの福音書21-12「水をぶどう酒に変える」

 

 本日は伝道礼拝にようこそおいでくださいました。伝道とは、道をお伝えすることです。道とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」とおっしゃっていて、父なる神様にすべての祝福と喜びと平和があるのですが、イエス・キリストはそこに私たちを導いてくださいます。

 

 さて、何事にも始まりがありますが、イエス様の人としてのスタートはベツレヘムでの誕生です。そして、キリストとしての歩みは公生涯と言いますが、約3年半ありましたが、バプテスマのヨハネが「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と語ったことから始まり、それから五日目、1章43節の言及から三日目のこととなります。

 

 だれでも、最初の一日目とか、一週間目とか、なかなかなじめなく、ぎこちないものだと思います。イエス様は「ラビ」と呼ばれても、しっかり受け止めます。ガリラヤのカナは、ガリラヤ湖の北西50キロで、ナザレから北へほぼ10キロのところにあったと思われますが、婚礼があった。主イエスの母もいた。主イエスも、弟子たちも招かれた。ただ、1章から見ると、12弟子はまだそろっていない頃でしょう。いや、使徒になる人は、イスカリオテのユダの代わりに選ばれる人は「主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」とすれば、一緒にいたが、まだ弟子に召されてはいなとも言えます。

 

 だれの婚礼か。大勢の人が招かれているようで、その地域の有力者であったと思われます。ぶどう酒が振る舞われます。しかし、用意が足りなかったのか、予想外に飲む人たちがいたのか。ぶどう酒が足りなくなってしまった。

 

 なぜ、マリアが主イエスに「ぶどう酒がありません」と言うのか。女性は給仕する方、お手伝いだったのか。ただ、気づいたので現状の打開を図ろうとしたのか。マリアは主イエスが、神の御子であることを知っています。聖書の知識はエルサレムで教師たちとやり取りしていたのも覚えています。しかし、まだ、神の御子として、能動的な行動はなさっていない。

 

 婚礼は、人々にとっても喜びの場であったことは確かです。しかし、ぶどう酒がないことを告げられても困る主イエス。主イエスは不思議と、「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」という。明らかに主イエスとマリアは親子関係。しかし、婚礼に招かれた者が、婚礼において、ぶどう酒が足りないことに対応する必要はない。

 

 ある文化では、婚礼に招かれた者は、自分が飲む分のぶどう酒を持って来て、樽にあけるという。ブレンドされて、その時だけの味わいになるのでしょう。

 

 「わたしの時」というのは不思議な言葉です。キリストとして、事を行う時はまだ来ていないということです。聖書の中には、いろいろな時があり、始まりの時、終わりのとき、十字架にかかる時が記されています。

 

 マリアが給仕の者に指示を出すのも不思議で、給仕がマリアの指示に従うのも不思議ですが、ぶどう酒がないことは、主催者にとって、赤っ恥をかくような状況には陥らせたくないと、マリアの指示に従ったのでしょう。「あの方が言われることは、何でもしてください。」主は困っている人の求めに、また、母の求めに、答えないわけにはいかないということ。80ℓとか、120ℓ入る石がめが6つあったので、主は「水がめを水でいっぱいにしなさい。」と命じます。きよめのしきたりとは何か。結婚式の時に、会場に入る者が手を洗うこととして、80ℓの樽が3つ、120ℓの樽が3つですべてで600ℓの水があったとして、空になるほど人が集まったのでしょうか。

 

 もともと水が入っていたのであれば、水ではなくて、ぶどう酒が入ってたという人が、出てきそうです。しかし、そこに水を入れたのであれば、良いぶどう酒ではなくなるわけで、いずれにしても主イエスが何かをされたということになります。

 

 主イエスは「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」と給仕たちに命じた。彼らは持って行った。宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」と言った。

 

 私たちはこれを「奇跡」と言いますが、聖書では「しるし」と言います。イエス様にとって水をぶどう酒に変えることは奇跡でも何でもなく、神様であるしるしを示されました。

 

 人は神様ではないので、人々にしるしを示すことはできない。イエス様は神様なのでできる。普通の人間ができたなら、それは奇跡かもしれないが、いつも行えるのであれば奇跡ではない。ぶどうは温帯で、平均気温が10度から20度程度が栽培に適し、年間雨量も500㎜から1600㎜が主要産地で、水はけがよく、日当たりが良い土地を好みます。そして実を収穫して1-2週間、低温では3週間で発酵完了とのこと。神様は時も治めておられるので、その発酵時間を大幅に短縮されたということです。神様は天地を6日間でお造りになることができるお方です。

 

 ある人は稼いだお金をほぼお酒に変え、妻の顔を悲しみに変えていた。しかし、キリストを信じて、稼いだお金を生活に必要なものに変え、妻や子供の顔を喜びに変えた。

 

 私たちは、おおよそ、人生においてどうすればよいか、わかっている。しかし、わかっているができない。例えば、ごめんなさい、ありがとうが言えない。口が裂けても言えないという人もいる。心では申し訳ないと思っているがと。キリストを信じると、ごめんなさい。ありがとうが言えるようになる。なぜなら、まず私の罪をお赦しくださいと祈り、私のために十字架にかかってくださりありがとうございますと神様に言って、新しく生まれ変わるので。

 

 

 これを罪の悔い改めと信仰告白と言いますが、ある人は100年経ってもできない。しかし、神様にそうできるように求めるとできます。共観福音書では奇跡を起こす条件が信仰ですが、ヨハネの福音書ではしるしの結果として信仰が生まれます。


2024年218日 主日礼拝 ヨハネの福音書135-51

「最初の弟子たちが主イエスに従う」

 

 大概、物事は、時間の流れに沿って進むのかと思いきや、そうではないことが聖書でもあります。それでも、このヨハネの福音書では、バプテスマのヨハネが祭司たちに聞かれ、キリストではないことを語り、その翌日はイエス様に向かって「世の罪を取り除く神の小羊」と宣言し、今日のところは35節、43節「その翌日」、「その翌日」と続きます。2章に入ると水をぶどう酒に変える初めての奇跡をイエス様が行いますが、これがこの一連の第一週に行われていることも、「それから三日目に」とあることからわかります。時系列です。

 

 さて、バプテスマのヨハネの活動は当初、この働きに召されたヨハネ単独の活動であったが、賛同し、共鳴する者が弟子として加えられた。弟子はマセーテースと言いますが、元となる言葉は、学ぶ、聞いて知る、確かめる、理解するという意味のマンサノーです。真理とは何か、人生とは何かなどを、ヨハネとともにいて、理解しようとする人たちが複数いた。

 

 「私は荒野で叫ぶ者の声です」というヨハネと、そのヨハネが「神の小羊」というイエス様と、どちらから学ぶと良いのか、ヨハネの弟子がキリストに会うと迷うところです。しかも、ヨハネ自身が「私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」と言ってたわけです。ヨハネと弟子の関係は、師匠と弟子の関係と言ったらいいのか。一度弟子となったら、弟子をやめることはできないのか。結構自由なのか。個別契約なのか、本人次第なのか、全くわかりませんが、ヨハネの場合は比較的自由にさせていたようです。それでも、ヨハネがヘロデに投獄され、斬首され、遺体を引き取るまでヨハネに従った弟子もいました。

 

 一方で、ヨハネがイエス様に向かって、「見よ、神の子羊」と言ったのをきっかけに、ヨハネの二人の弟子は、イエスについて行った。この「ついて行く」は信仰的なものを表します。イエス様は振り向いて、ついて来る二人に「あなたがたは何を求めているのですか。」と聞かれました。彼らは「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」という。ラビは当時のユダヤ人が使っていたアラム語で、わが主、大いなる者の意味で、ユダヤ人が教師に対して使う尊称です。ヨハネの弟子たちは尊敬をもって主イエスにラビと言い、「どこにお泊りですか」と聞きますが、この「泊まる」も、通常は「留まる」と訳される場合が多く、寝起きの場所というより、主イエスがよりすがっている根本をお尋ねしたかったのでしょうし、一晩というか、ゆっくり、じっくりお話ししたいという願いです。それに対して、「来なさい。そうすれば分かります。」という優しいイエス様。ヨハネの福音書では、午前6時を起点に第何次を足すと現代の時間になります。第十の時は午後4時頃となります。

 

 12弟子の名前が記されている箇所はありますが、ヨハネの福音書では、その弟子との出来事が比較的わかります。一人はアンデレ。ところがアンデレと言っても有名ではないので、シモン・ペテロの兄弟アンデレでと説明されます。アンデレはバプテスマのヨハネの弟子であった。そして、メシア(キリスト)に会ったと兄弟のシモン・ペテロに伝えます。しかも、単独の証言ではなく、「私たち」と、複数証言ですので信ぴょう性が高まります。このシモン・ペテロの本名はシモンで、そのシモンにイエス様がペテロとあだ名をつけられた。このペテロは、ペテロの頭の固さなのか。意思の硬さなのか。やはり、イエス様がマタイの16章で「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」の問いに対して、「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白に対してです。その告白こそ、揺るがない教会の土台となるということをあらかじめ語った。

 

 41節の「私たちはメシアに会った」の会ったの脚注は「見出した」とあります。アンデレはメシアを探し求めていた。その方に出会ったら嬉しいでしょう。誰かに伝えないわけにはいかない。兄弟のシモンに報告します。42節、シモンもメシアに合うことを願ったので、イエス様のもとに連れていきます。イエス様はシモンを見つめて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」という。イエス様はその人物の将来を見通すことができる。だからケファと呼ばれると言います。ある意味、シモンがイエス様に対して「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白をすることができるように、導かれた。ケファはアラム語で、ペテロはギリシア語で、アラム語は当時のユダヤ人が使ってた日常語で、ヘブル語によく似ています。個人伝道の方法で「アンデレ活動」というものがあります。信者が身近な人、兄弟や親や子を伝道集会や教会にお連れするということ。そこが信仰のスタートとなります。もちろん、アンデレが主を信じたとか、シモンが主を信じたという記述はないのですが、主とともにいて、主を深く知るようになります。また、ヨハネは自分のことに関しては控えめで名前を出しませんが、アンデレと共にいたもう一人の弟子はヨハネだと思われます。

 

 翌日、イエス様はピリポを見つけ「わたしに従って来なさい」と言われた。不思議ですが、ここでは主がご指名されるわけです。アンデレ、ペテロと同郷のものです。ピリポはナタナエルをイエス様のことを語ります。ナタナエルはピリポに「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」というが、ピリポは自分があれこれ語るよりも「来て、見なさい。」という。ナタナエルはピリポとの信頼関係があったので、主のもとに来た。ある面、義理でと言ってもいいかもしれません。お前が言うなら行ってみるかという具合でしょう。でもメシアに出会う。

 

 イエス様は「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」という。そう言うことが言えるイエス様がすごいですが、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」とイエス様はナタナエルに語ります。ナタナエルが「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と言います。48節では「ラビ」とは言っていませんが49節では「ラビ」と主に敬意を表します。

 

 イエス様は「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」と言われます。イエス様と一緒にいるとすごいことが起こります。わくわくします。それは止まることがない。ある意味、信仰、期待がないと始まらない。ペテロは海面歩行のとき、風を感じて恐れますが、しっかり主ご自身を見ることが大切です。

 

 

 ナタナエルは他の福音書には登場しないので、途中で離れて行ったのか。いや、ヨハネの21章にも弟子の一人として記されているので、他ではバルトロマイと呼ばれる人物ではないでしょうか。そして、主は私たちの賜物も将来もすべてご存知なのです。


2024211日 主日礼拝 ヨハネの福音書119-34

「ヨハネの使命と主イエスのメシア宣言」

 

 今日の箇所は、福音書の調和表では、イエス様の洗礼とは別に扱われますが、とても似ているところです。さて、病院で白衣を着ている人がすべて医師であるとは限らず、ホテルでブレザーを着ている人がすべてホテルマンとは限りませんが、間違いが起こりうる。私は誰かに間違われてうれしいことはありませんが、皆さんはいかがでしょうか。

 

 ユダヤ人たちが、祭司長やレビ人たちをエルサレムから遣わしたのは、荒野であったのか、ヨルダン川であったのかは28節に、「ヨルダンの川向こうのベタニア」と記されています。そしてバプテスマのヨハネに「あなたはどなたですか」と尋ねます。ヨハネは察しがよく、「あなたはキリストですか」という問いであると受け止め、「私はキリストではありません」と明言します。あえて「ためらうことなく告白して」というのは、キリストに間違えられるのは、いやなことではなく、むしろ心地よいことであると言えるでしょう。しかし、ヨハネは正しく、自分の心地良さより、真実を語ります。

 

 キリストではないなら、何者なのでしょうかというのが次の質問で、エリヤですかと聞かれる。マラキ書45節に「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」とあるので、キリストでなければ、エリヤですかという問いになりました。エリアは竜巻に乗せられて天に上がったので死んでいません。エリアであることも否定しますが、「では、あの預言者ですか。」と聞く。両者の間には共通の預言者がいたようですが、脚注には申命記18章から、同胞の中から出る預言者ということですが、それでもないと言います。

 

 ヨハネについては最後の預言者という人もいますし、マラキ書で言うエリヤだという人もいますが、ヨハネ自身としては、「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」ということです。これがヨハネが神様からいただいた使命です。

 

 彼らの次の質問は「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」でした。もちろん、聖書を見るとイエス様がバプテスマを授けるとか、エリヤがバプテスマを授けるとか、あの預言者がバプテスマを授けるという記事はないのです。そして、ヨハネの答え「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」とあり、質問と少しずれています。ただし、ある意味、質問がずれています。ヨハネは悔い改めを示す水のバプテスマを授けていましたが、祭司長やレビ人に「なぜ」と問われる筋合いのものではなかった。彼らにとっては、「信仰に関する一切のことは、私たちを通してでなければ認められません。」ということを言いたかったのでしょう。しかし、それが神様から直接命じられたことであるということであれば、彼らにとっては心穏やかなものではありません。人々は、ヨハネがキリストなのではないかと考えたわけですが、ヨハネは、「その方の履き物のひもを解く値打ちもありません」という。それだけ、キリストは素晴らしく、近寄りがたいことを語ります。

 

 翌日、イエス様がヨハネの方に来られます。そして確信をもって「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」と宣言します。ヨハネがイエス様にバプテスマを行なった場面とよく似てはいますが、書いた人が違うという以上の違いがあり、やはり別な場面であると判断できます。また、ここで言うバプテスマはイエス様へのバプテスマではありません。32-34節の「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」という証言は、今起きたことではなく、過日、イエス様に行ったバプテスマのときの証言です。それは文法上、明確です。神の小羊は出12の過越し、出29:38-46の朝夕犠牲、イザヤ53:4-12、創世記22:7

 

 また、昨日の祭司長たちの質問で、「なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」というのがありましたが、ここでは、「水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方」がおられることを語ります。しかもそのお方は、その辺のだれかではない。「御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。」ということのできる方です。

 

 もっと言えば、ヨハネは水によって悔い改めのバプテスマを授けていたが、ヨハネが前備えしていたのは、聖霊によってバプテスマを授ける者のため。聖霊によるバプテスマとは新生をもたらすバプテスマです。だからヨハネは、「その方の履き物のひもを解く値打ちもありません」と言った。そして、ヨハネに使命を与えられた方は神様であり、聖霊によってバプテスマを授ける者こそ、キリストなのです。

 

 世の中には、「はい」とも「いいえ」とも言わず、間違いのまま、成り済ます者もいます。自分が○○だといったのではなく、あなたが勝手に勘違いしただけでしょ、と。しかし、キリスとでもない者が、そのように相手を勘違いさせておくのは不届き千万。

 

 私たちの場合は、キリストのものとされ、キリストに似る者とされているので、キリスト者というのは間違いなく、神の子とされているので、神の子とされたことを喜んでいいのです。むしろ、感謝をもって、その意味を深く味わえばいい。

 

 同じ人間でありながら、ひざまずいて人の靴を磨く人と、靴を磨いてもらう人がいることを否定するのではなく、これは役割で、ヨハネが主イエスの履き物の紐を解くとは、天から来られた方と地から生まれ出た自分との対比です。ヨハネの謙遜さもにじみ出ていますが、主イエスはマタイの福音書1111節で「まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。」と語り、天と地の絶対的違いを語っています。

 

 

 ああ。それなのに、それなのに、主イエスの十字架は天と地を結び、救い主を信じる者を天に引き上げてくださいます。本当に主イエス様に感謝します。


202424日 主日礼拝 ルカの福音書41-13「サタンが荒野で主イエスを試みる」

 

 3つの福音書に、サタンが荒野で主イエスを試みる記事が記されています。マルコの福音書では、イエス様が洗礼を受けた後「すぐに」、四十日間荒野で、サタンの試みを受けたということのみが記されていています。マタイの福音書にも「すぐに」ということばが20回、ルカにも10回、ヨハネにも7回書かれていますが、マルコの35回は特徴的です。ペテロの思考や性格を表しているかもしれません。ただ、どういう試みであったかは、マルコには記されていません。

 

 イエス様がどうして荒野に行かれたか。それは御霊に導かれてのことです。御霊はプネウマと言いますが、プネウマに英語のtheにあたる冠詞のトがつくと、聖霊になりますが、プネウマだけでは、実は、御霊かただの霊か、判別できませんが、文脈を通して、御霊であると判断しています。試みは誘惑とも訳されます。つまり、成長になるのであればしばしの試練ですが、負けてしまうのであれば誘惑ともなります。荒野は、わずかな草木があり、小規模の牧畜も可能ではあるが、ほぼ人のいない寂しいところ。頼るは神様のみで、かつてモーセ率いる民もここで神様の訓練と養いを経験しました。

 

 神様は愛する者を訓練なさいますが、悪魔は、訓練ではなく、引きずり落そうとします。なぜ、神の御霊は主イエスが悪魔に試みられることを許すのか。とても不思議ですが、最初の人アダムはこの試みに完敗しました。主イエスは第二のアダムとして、人々を勝利に導くため、試みに遭われました。

 

 普段と違って、お腹が大変空けば、がづがつ食べたくなるでしょうし、いつまでも治らない病気になれば、いっそのこと死にたくなったり、調子がとても良いと、偉くなったように思ったり、特別な思考を持ち、特別な行動をするかもしれません。悪魔は、私たちが普段想定していない事柄に関して、冷静に考えさせず、急がせて決断させようとします。

 

 ルカの福音書42節を見ると、イエス様は四十日間の試みの間には空腹を覚えず、この期間を終えてから空腹を覚えられたというので、悪魔の試みに打ち勝つことに、思いを集中させていたと思います。四十日間の試みの回数が3つではなく、四十日間の試みの代表として、3つの試みがあったように記しています。

 

 1つ目は、肉体の必要で、空腹を覚えた主イエスに対して「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい。」という。イエス様は神の子であることは事実です。だからと言って、悪魔の指示に従わなくていい。石をパンに変えることもできた。しかし、申命記83節「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」と言って、悪魔に応じられました。

 

 2つ目は、精神的必要で、イエス様を高いところに連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。だから、もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる。」と言います。国々の権力と栄光が悪魔に任されているというのも真実ではなく、神の御子が悪魔にひれ伏すことはない。それでもイエス様は「馬鹿なことを言うな」ではなく、申命記613節「『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」と答えられます。

 

 最後は霊的なことで、悪魔はイエス様をエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい。『神は、あなたのために御使いたちに命じて、あなたを守られる。彼らは、その両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」と、悪魔自身も聖書を引用して語るのですが、御使いが助けてくれるのは確かであるとしても、あえて、高所から身を投じる必要もない。イエス様は申命記616節「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」と答えられます。

 

 各箇所をよく見ると、臨機応変に、聖書の主旨に則って応えています。イエス様の聖書の理解力と適応力は、私たちにとって模範となります。

 

 悪魔は人間に対しては百戦錬磨、だましのプロフェッショナルです。しかし、イエス様には全く歯が立ちませんでした。ルカの福音書413節では「悪魔はあらゆる試みを終えると、しばらくの間イエスから離れた。」とあり、一旦退散しますが、また襲い掛かってきます。その最大のものが十字架です。

 

 マタイの方では「イエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」と記しています。私たちにとっても、人生は誘惑であり、戦いであります。あなたがクリスチャンなら、神を信じているなら、「これらの石がパンになるように命じなさい。」とか、祈りなさいと仕掛けてくる。「あなたが神を本当に信じているなら、ここから飛び降りて、御使いが確かに受け止めてくれるという所を見せてもらいたいもんだ。」と言ってくる。そして、「あなたが神にではなく、私に従うならば、この世の地位でも、財宝でもあなたにあげます」と迫って来る。イエス様は「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」と答えられます。このマタイの410節の「下がれ、サタン」は、イエス様が弟子たちに、「ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、」示し始められたとき、ペテロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」と言ったときに返された主のことばと同じです。つまり、イエス様は御父のみ旨をよく踏まえており、それに反することに関しては強い意志をもって退けられます。

 

 イエス様は神様であり、イエス様も礼拝されるべきお方です。しかし、イエス様の中には、神様に背いた悪魔にひざまずく思いは決してなく、人間を贖った後、礼拝されることを良しとしても、今はまだその時ではないことを表しています。だから、十字架の死を避けるということもなかった。

 

 

 とかく人間は楽しいこと、安楽なことを求める。しかし、主イエスは御父のみこころを第一に求められました。私たちも悪魔に試みられる。それは御旨に従って生きるか、自分の思いに従って生きるか、どっちであるかを、神様に対して、それ以上に自分に対して、はっきりさせるためです。あるいは失敗もあるかもしれません。しかし、私たちの弱さをご存知の主に感謝します。そして、勝利の模範を示された主をあがめます。


2024121日 主日礼拝 ルカの福音書31-22「主イエスのバプテスマ」

 

 バプテスマのヨハネとイエス様のバプテスマについては、ヨハネ以外の3つの福音書に記されています。バプテスマのヨハネの記事は不要だと考える人もいるかもしれません。しかし、イザヤ書403節に、「荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。」とあります。そして、ここに関してはすべての福音書で引用してます。イエス様がキリストであるということを、旧約聖書に記されているとおり、バプテスマのヨハネの活動について触れながら、証明しています。

 

 ルカは医師であり、歴史家であると言われますが、12節の「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。」と、時代と場所を明確にします。

 

 この皇帝ティベリウスは初代のローマ皇帝ガイウス・ユリウス・カエサルの養子で、紀元前42年に生まれ、紀元14年に皇帝になりますので、その治世の第十五年から、バプテスマのヨハネの活動開始は紀元28年ということになります。それはイエス様の活動開始の時期も示唆します。

 

 神様のことばがヨハネに臨み、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と語るのは、マタイ32節。マタイ、マルコでは「エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」とあります。ルカでは「ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」とあります。つまり、ヨハネはまず各地に行って、悔い改めを迫ると、人々はそれに応じて、ヨルダン川にいるヨハネのもとに来た。

 

 それにしても、らくだの毛の衣をまとい、革の帯を締め、いなごと野蜜を食すのは、特徴的であった。また、語ることも特徴的であった。マタイとルカでは、「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」と迫ります。まむしの子すなわち、サタンの子という。さばきが迫る。アブラハムが私たちの先祖であるということは、何ら効果なし。悔い改めよと。ただし、マタイはパリサイ人とサドカイ人に対してこう語り、ルカでは群衆に対してです。もちろん、ルカはパリサイ人とサドカイ人も群衆の中に入れていたかもしれませんが、この場合、マタイの見方の方が的確でしょう。

 

 悪い生活をしていた人が、その生き方と決別する時、足を洗うと言います。ユダヤ教に改心する人は割礼。ユダヤ教の一派のエッセネ派は入会の儀式に、この洗礼をしましたが、聖書が教える洗礼は、キリストとともに、この世に対して死に、キリストともに、神に対して生きるという証し・決意表明とともいえるのがバプテスマです。意味は浸す。

 

 人々はどう生きたらいいか、問いますが、ルカにある記事では、ヨハネは「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」と勧めます。今でいえば、分け合う、助け合う、シェアする。当時も、今も、人間は独り占めしてしまう。それが罪の特徴です。ルカでは取税人と兵士に対するアドバイスもあります。職業上の地位や権力を乱用しないこと。

 

 こうしたヨハネは群衆の評価を受けますが、人々は「このヨハネがキリストではないか」のと期待します。こうした経緯を記すのはルカのみで、マタイとマルコは「私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」と、後に来られるイエス・キリストのことを語ります。

 

 その折、イエス様が、バプテスマのヨハネから、バプテスマを受けようと来る。バプテスマが、神様とともに新しく生きる決意を表すものだとすれば、イエス様にその必要はない。悔い改めるべき罪もない。なのに、バプテスマを受けるという。これはヨハネとしては、全く予想外。ヨハネは、そうさせまいとして「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」と言った。しかし、主イエスは「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」という。ヨハネは主イエスの言われたことに応じます。ヨハネはしもべとしての心を持っており、適切なふるまいをします。イエス様も謙虚な方です。お互いにへりくだっています。

 

 3つの福音書に主イエスのバプテスマのことが記されており、マタイとマルコでは、水から上がられると、マタイ「天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。」マルコ「天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。」ルカは「イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。」とあり、多少表現が違いますが、書き手が違うので当然であり、立体感が出て来ます。

 

 そして、天から声があり、マタイ「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」マルコ「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」ルカ「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」とあった。これは、イエス様が知らないことではない。むしろそこにいた者への証しでしょう。しかし、キリストとしての公生涯に入った御子への承認と励ましでもあります。

 

 

 私たちがバプテスマを受けたとき、あるいは、みこころを知ってそれを行う時、天から、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」ということばを聞いたでしょうか。聞いたのであれば、それは素晴らしいこと。聞かなくても、バプテスマによって、あなたがキリストとともにこの地に対して死に、キリストともに主のみこころのうちに生きることを決意したとき、神様は「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と発しておられた。そしていつも私たちに対して、「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」とおっしゃっていることを信じます。


2024114日 主日礼拝 ルカの福音書241-52「宗教の教師たちと話をする主イエス」

 

 旧約の民は、心して、モーセが神様から受けた十戒を守りましたが、守るのは、十戒だけではなく、旧約聖書に記されている様々なことです。その中には、年に三度、祭りを行うということも含まれ(遠隔地の者は過ぎ越しのみ)、その一つが、種無しパンの祭り=過ぎ越しの祭りでした。これを命じられているのは「男子はみな」とあるので、女性は任意なのか、男子とは成人した12歳以上を言うのか、というとすべてを含むのではないでしょうか。

 

 ところが、契約の民として、大切にされていた割礼さえも、荒野での40年間では実施されていませんでした。いろいろな事情もあるのでしょうが、そういう場合、元に戻すのが預言者であったり、リーダーである王の役割でした。

 

 さて、ローマの皇帝アウグストゥスの命令で、身重の妻を連れて、ナザレから故郷ベツレヘムに行くことに文句を言わないヨセフにとっては、なおのこと、神様の求めに一家で従うのはごく当然です。それは家族で過ぎ越しの祭りを祝うことも含みます。

 

 41節、「イエスの両親は」とあり、主イエスは含むのか、含まないのか。ここも、主イエスを含むと理解していいと思います。主イエスが12歳になった時も「両親は」とあります。

 

 43節、なぜ両親はエルサレムにとどまっておられる主イエスに気づかなかったのか。もう大人と認め、自主性を重んじていたが、祭りが終わったので、留まるのではなく、帰路にあると考えたか。一緒にいった親族や知人の中にいるのだろうと思って探すも見当たらない。

 

 ヨセフとマリアはエルサレムに戻ります。1日の道のりを進んだので、もう1日かけてエルサレムに戻り、主イエスに会えたのは3日後になります。

 

46節、「そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」と言う。

 

 「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」これは、叱っているのか。理由を尋ねているのか。さあ、帰りましょうという促しなのか。ヨセフは何も語らないのか。

 

二人は「イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。」ということは知らないのか。主イエスがどんな顔で、どんな声で、教師たちと対話していたか。

 

49節、主イエスは両親に「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」と言われたが、両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。両親は子どものことと自分のことを常に考える。主イエスにとっての父とは誰か。主イエスはご自分の父である神様の事柄をいつも思いめぐらす。

 

私たちは、ヨセフとマリアが探しに来なければ、イエス様はずっとエルサレムにとどまったのか、あるいはしばらくして、ナザレに戻られたのか、本質的でないことを考える。

 

主イエスは両親と一緒にナザレに帰り、両親に仕えられた。マリアが「これらのことをみな、心に留めておいた。」というのは、両親に仕えたことだけではなく、この日のエルサレムでの理解できなかった事柄も含むでしょうが、主イエスを自分の胎に宿す前に、御使いが「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」も含むすべてのことだと思います。

 

 神様から恵みを受けたマリアであっても、神様のなさるすべてを理解し尽くすことはできない。いや、一つずつ、受け止めていかなければ、一度にすべては受け止められない。その折々に、確かにこの子は神の子であると実感を深めることになります。イエス・キリストは完全に神としての性質と完全な人間としての、ある場合矛盾することもある性質を持ち合わせていました。

 

52節、「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。」と短く語り、あとは公生涯のスタートまで、何も語りません。ヨハネは福音書の最後に「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」と、すべてを書き尽くせない理由を記しています。

 

さて、12歳の主イエスと対話した、宮にいた教師たちは、この少年イエスについてどう思ったのか。そばにいてやり取りを聞いていた群衆と同じく、ただ、イエスの知恵と答えに驚いただけだったのか。

 

主イエスが公生涯をはじめ、祭司長、律法学者たちは、主イエスと対立したが、自分たちのもとで正規に学んでいないというだけで、排除しようとしたのか。もちろん、自分たちをはるかにしのぐ律法の理解と生き方、また、癒しや群衆を従える主イエスに対するねたみもあったが、約18年前に対話したあの少年であることを思いだす者はいなかったのか。輝く主イエスに対面しつつも、自分たちの群れの中にいない者は攻撃の対象で、自分たちのもとに留まれば留まったで、自分たちの影響下に置こうとするのか。どんなに主イエスが素晴らしくても、主イエスを神と認められなければ、救い主と受け入れられなければ、祭司や律法学者であっても、どんなに聖書の知識があっても、救いを自分のものとしていただくことはできないのです。

 

 

 マリアは主イエスに関する「これらのことをみな、心に留めておいた。」のですが、私たちも、子育てだけではなく、自分の生涯において、主のなされた導き、教え、恵みを覚える者です。個人のこと、家庭のこと、教会でのこと、社会でのこと。そして、私たちが信じている主は今もいつも、共にいて導き、祝福してくださることを覚えます。だから、生涯にわたって、信頼して、従っていけるのです。そして、この主を世界に対して、証ししていくのです。


202417日 主日礼拝 マタイの福音書213-23「逃避と帰還」

 

 新改訳聖書2017で言うと、新約聖書には「夢」という言葉が11回出てきます。福音書には6回。しかも、マタイの福音書だけに出てきます。しかも新改訳聖書2017の新約聖書23ページに5回出てきます。120節はヨセフに対して、マリアの妊娠についてでした。212節では博士たちに対して、ヘロデのところには戻らないようにという警告でした。

 

 夢は、一般に、その人の願望であったり、思いの中で溢れるものかもしれません。寝ている時に見る夢は、眠りの浅い時に見るようですが、起きたときには忘れていることが多いと思います。神様に直接会うことを恐れる人に、神様は眠りを与え、その中で、記憶に留まるように、告げられる夢は一般ではないかもしれませんが、旧約時代から、アブラハムも夢で将来のことを告げられ、ヤコブの息子のヨセフも夢で告げられ、ヨセフの周りの人も、ダニエルの周りの人も、夢を見て、ヨセフやダニエルに解き明かしを受けました。

 

 マタイの2章、3章では、誰かの解き明かしを必要とせず、夢を見た本人がその意味を理解しましたが、マリアの夫ヨセフは、主の使いが夢で告げられるということを4度経験し、毎回、その指示に従っています。そして、大事ないのちを守っています。

 

 ヨセフにとって、1回目はマリアの胎にいる子は聖霊によるものであることを告げられますが、2回目は、博士たちが幼子を礼拝した後のことです。ベツレヘムで御子が生まれるという預言があったわけですが、博士たちが来る前にエジプトに行ったのであれば、博士たちは黄金、乳香、没薬をささげられませんでした。博士たちに会った後なので、そのささげものが、移動や滞在の費用として用いられたと考えられています。ここにも、神様の配剤、ご配慮があります。

 

 それは私たちが、いつも、何の備えもする必要がないというのではなく、神様の命じるところに従う時に、備えがないことで従えないということはないということ。むしろ、ここでは、ヨセフが従うために、博士らの備えが用いられた。しかも、身近にいたのではなく、遠くからわざわざ来て、宝をささげた。

 

 私は個人的に「逃避」「逃亡」「逃げる」という言葉は好きではありません。しかし、私が好きか好きでないかにかかわらず、主の使いが「逃げなさい」という時がある。しかも、ユダヤ人は先祖が奴隷生活した「エジプト」は嫌であったでしょう。しかし、ヨセフにとっても、逃亡先がどこであれ、好き嫌いは言えない。子どもが幼いとか、エジプトには知っている人が誰もいないとかではない。ヨセフは主の使いを信頼して、速やかに従いました。神様も気持ちいいでしょうね。だから、ヨセフは選ばれていたのではないかと思えます。もちろん、ヨナのような不従順な人も用いられていますが。

 

 いつまでエジプトにいるかは、主の使いが知らせるまで。逃避する理由は「ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしてい」るから。いつまでもエジプトにいるわけではなく、危険回避のために逃げるということで、ヨセフには十分でした。

 

 私たちが主の使いによる夢を見たら、いつ行動するでしょうか。私たちはあれこれずっと思い巡らすのかもしれません。14節、「そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」素晴らしいですね。夢で告げられて、起きて、直ちに行動しました。実は、エジプトへの逃避とナザレへの帰還はマタイの福音書にしか書かれていませんが、マタイは、ヨセフのこの行動が、主の使いが夢で語られたからという理由と、旧約聖書の預言に基づいていることを記します。というのも、主に、読み手をユダヤ人にしているために、ヨセフの行動が預言の成就であったことも、伝えています。預言と成就という言い回しは、ルカとヨハネと使徒には各1回ずつですが、マタイでは12回、記されています。

 

「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」はホセア書111節の引用です。これは、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出したことを語っている面と、御子がエジプトから呼び戻されることとして書いています。

 

ヘロデは、博士たちに、幼子に関する情報、生まれた場所や御子であることを表す特徴を聞き出そうとしていましたが、博士たちは主の使いに従って、東の国に帰って行ったので、ヘロデは「ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。」とても残忍です。ある意味、メシアが生まれても、ヘロデの在任期間中、その地位を揺るがすことはなかったでしょう。イエス様が生まれたときヘロデは6668歳ぐらいだったと思われます。だから、幼い子を殺害する必要はなかった。しかしこの出来事も、エレミヤ書3115節の預言「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」が成就することになります。「神様。こんなひどいことを預言しないでください」と思う人もいるかもしれません。神様がこのような悲惨な事件が起こることを定めたのではなく、ヘロデが行うことを語ったのです。人々は、そういう人物を王の座から引きずり下ろすこともできなかったのです。

 

 幼児虐殺のあと、ヘロデは死にます。「主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに現れて言った。『立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。』」エジプトの方が文化的で、賑わいもありました。生活もしやすかったと思いますが、ヨセフは主の使いが語ったことに従い、イスラエルに戻ります。

 

 ヘロデには判明する限り5人の妻と7人の息子がおり、ヘロデの死後、アルケラオには「王」の称号は与えられず、「民族の統治者」として10年間、ユダヤの地を治めますが、あまりにも残忍であったため、この度は、ユダヤ人とサマリヤ人がローマ帝国に訴え、アルケラオは役割を奪われ、ゴール地方に流刑され、その後、ユダヤはローマが直轄統治することとなります。アルケラオの異母兄弟ヘロデ・アンティパスはガリラヤとペレヤの国主、ヘロデ・ピリポも貧しいガリラヤ湖東岸地方の国主となります。ちなみに、このヘロデ・ピリポがヘロデ・アンティパスの妻、ヘロデヤを略奪し、それを咎めたバプテスマのヨハネの首を、義理の娘サロメの願いに応え、ためらいつつ、切落させます。

 

 

 国主であっても、法も理性もなく、あるのは欲望と地位と権力。ヨセフ一行はもといたナザレへ帰還します。これも、預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。それはイザヤ111節のことであるとの指摘もありますが、名称が変更されているのか、旧約聖書には「ナザレ」に関する言及は見つかっていません。


20231231日 主日礼拝 詩篇1181-29「神様は素晴らしい」

 

 いつの時代にも、聖句そのものにメロディーをつけて賛美することが行われています。そうした賛美の中に「主は素晴らしい-Oh, God is good」という曲があります。日本語の聖書で「主は素晴らしい」という表現はありませんが、英語の聖書の中には、God is good.は度々出てきます。詩篇1061節、1071節、今日の118篇の1節と29節は、God is good.となっています。

 

ヘブル語原典では「感謝せよ。主に。良いから。主の恵みはえいえんだから。」とあります。訳し方によりますが、新改訳では「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」としており、英語は「主に感謝せよ。主は良いから。主の恵みはとこしえまで。」となります。日本語では単に「良い」というより「まことにいつくしみ深い」と神様にふさわしく訳したいんだなと思います。

 

ヘブル語で「良い」は「トーブ」と言います。なぜGod is the bestではないのか。Goodの中に、Bestも含まれているからです。神様は素晴らしく、最高で、一番ではあっても、「良い」という。教会福音讃美歌1番に「聖なる 聖なる 聖なるかな」とありますが、これはイザヤ書63節が元になっています。これはヘブル語では最上級は同じ形容詞を3回使ってそのことを表すので、原典では「カドーシュ、カドーシュ、カドーシュ」となっています。

 

人間は、その世界で1番の者、超越した者、優れた者を神としますが、聖書の神様は天地の造り主で、全知全能で、愛のお方であり、唯一で、さらに加えて、神様が良いお方です。そうした神様であるのに、7節の助けについて、旧約聖書の「助け」は神様に関して一番多く用いられています。私たちにできることを助けてくださるのではなく、私たちにできないことをして下さるがゆえに助けとなっています。

 

 詩篇118篇の8節、9節は直訳すれば、「主に身を避けることは良いことです。人に信頼するよりも。」「主に身を避けることは良いことです。君主たちに信頼するよりも。」とあり、ここにも「トーブ」が出てきます。良い方のもとにいるのが一番良いことです。

 

 新約聖書にも「良い」という言葉が出てきます。ルカの福音書1818-19節では「ある指導者がイエスに質問した。『良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。』19 イエスは彼に言われた。『なぜ、わたしを「良い」と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。』」とお答えになっており、ここではご自身に「良い」とつけられるのをためらっているというか、戸惑っています。

 

 この指導者が心からイエス様に、「良い(アガソス)先生」と呼びかけているのか。良いお方、すなわち、それは神様のみですという意識をもって問いを発しているのかを吟味するものであります。誰にでも簡単に「良い」という形容詞をつけてはいけないという戒めでもあります。

 

ヨハネの福音書1011節では「わたしは良い(カロス)牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」と語っています。そして、確かに、イエス様は私たちのためにいのちを捨ててくださいました。羊のためにいのちを差し出す羊飼いはなかなかいない。だから、イエス様こそ「良い羊飼い」という名に当てはまります。

 

 私たちはその人が良い人なのか、普通の人なのか、悪い人なのか、見極めようとします。悪い人であれば、離れるか、距離を置く。良い人であれば、距離を詰める。ただし、普通の人は良い面が出たり、悪い面が出たりするので、そのことを踏まえてお付き合いする。

 

 では、神様との距離はどうしたらいいのか。人間が神として奉る神ではなく、天地万物と私たちを造られた神様に対してどうするか。神は愛ですとありますが、人間が考える愛には、制限、限界があります。でも、神様の愛には限界、制限はありません。

 

 「今日雨だった。」「今日怪我をした。」「今日物を無くした。」「失敗した。」「自分が願った一日と違っていた。」そこには、私たちの責任もあるでしょうが、こういう状況に置かれた神様は、私たちの願いを知らなかったのか。願いを知りつつもできなかったのか。

 

 私たちが信じる神様は変わることのないお方。その日の気分でものを決めない。エレミヤ書291114節に「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──主のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』」とあります。

 

 私たちがうまくいったとか、行かなかったと思おうと、ローマ人への手紙828節では「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益(アガソス)となることを、私たちは知っています。」とあります。

 

 同じ「良い」でも、アガソスは人には用いず、本質的善を、カロスは外面的善を言います。正しいに近い「良い」がアガソスで、美しさに使われる「良い」はカロスです。

 

 さて、詩篇118篇は14節までは感謝することと、告白するように命じられています。主が良い方であることを知っていれば、自ら感謝し、賛美できますが、主が良い方であることを知らなければ、主が良いお方であるという神様への信頼、信仰が必要です。

 

 514節はエジプトでの寄留生活であったり、荒野での苦しい生活にも重なります。しかし、共におられつつ、あえて、そうしたところへ導かれた。15節からは主の守りと支えです。22節からはイエス様について引用されることのあるところです。別の分類では59節は深刻な制限、1016節は外部の嫌がらせ、17-18節は病、そこからの解放です。

 

 

 私たちは私たちを愛してくださり、良いもので満たしてくださる、良い神様を知るものとされていることに感謝しましょう。


20231224日 クリスマスファミリー礼拝 ルカの福音書146-55

「主のあわれみ-真実な愛」

 

 クリスマスおめでとうございます。

ルカの福音書146-55節は簡単にマリアの歌、マリアの賛歌と言いますが、ラテン語を使ってMagnificat(マグニフィカト)と言われることがあります。意味は「あがめる」「たたえる」です。由来は46節の「私のたましいは主をあがめ」にあります。ラテン語訳もギリシア語訳もあがめるを意味するMagnificat、メガルネイが冒頭に来ます。

 

 マリアの賛歌は「私」が神様をたたえる主体となっています。それは主が「この卑しいはしために目を留めてくださったから」です。そう実感したからです。年若い自分に、救い主誕生に関わる役割を与えられたという喜びも含みます。

 

 私たちはマリアと同じ役割を担っているわけではありませんが、マリアと同じ気持ちで主をたたえることができます。

 

 46節の「私のたましいは主をあがめ」と47節の私の霊は私の救い主である神をたたえます。」とは、旧約の詩の特徴の言い換えです。強調となります。「卑しい」とは、地位、身分の低いこと。境遇を言うこともあり、品位の低さも言います。神様と自分を比べてこう言っているのか、ダビデの家系であるのに、今は王位にはいないという意味かもしれません。私たちも神のかたちに造られつつ、罪により、卑しいものとなった。そして、ここで卑しいと訳されていることばは、ピリピ28節の「自らを低くして」と訳されている、神であられるイエス様が人となられたところでも使われていることばでもあります。

 

マリアは「ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。」という。男性は子どもを宿すことはできませんが、女性の中にはマリヤのように神の子を宿したいと思われた方もいるかもしれません。しかし、イエス様が完璧な救い主なので、第二、第三のマリアは不要です。「幸い」ということで言えば、山上の垂訓に従って歩む者も幸いな者です。しかも人々が言うのではなく、主イエスが幸いですと言われる。

 

マリアが人々に幸福な者と言われる理由は、力ある方、神様が、マリアに処女懐胎という大きなことをしてくださったから。私たちは主イエス様が私たち罪人のために十字架にかかり、贖ってくださるということ。神の御子がマリアに宿り、神の御子が私たちの罪をとり去り、聖霊が御子に代わって、私たちのうちに住んでくださる。これは幸いです。

 

さて、50節から「あわれみ」が50節、54節、55節と3回出てきます。原文では50節、54節の2回です。55節は補足です。あわれみの意味は原文でも、かわいそうに思うこと、同情、慈悲です。脚注では「真実の愛」とあります。

 

神様は「心の思いたかぶる者」を許さない。神様を認めず生きている者は傲慢です。一方で、悲しみを知っている者を顧みてくださる。あわれんでくださる。悲しみの原因はいろいろあるでしょう。一言でいえば人間の罪が悲しみの原因です。その罪が広がる。神様の力は義のために使われる。実力で権力ある地位に立っても、正しくなければ引き下ろされる。逆に、正しく生きていても踏みつけられてきた者に対しては、人としての座を回復をしてくださる。飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返される。

 

マリアはローマ帝国に苦しめられたことを言っているのか。ローマの名を借りてヘロデが悪さをしていたのか。両方当てはまると思います。

 

マリアがたどれる祝福の原点は先祖アブラハムです。そして、胎に宿した子の誕生がイスラエルが助けられるところ、喜びと希望の満ちるところと見ています。

 

ザカリヤも、息子ヨハネが誕生したとき神様をほめたたえています。ここにもアブラハムへの誓い、ダビデ家の存続、御民が見守られ、助けられる確信があります。72節に主が先祖たちをあわれまれたこと、そして敵からの救出、主に仕えていくこと、神様を恐れ正しく生きていくこと。そのために生まれた先遣者ヨハネ。このことに関して78節「 これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」と語ります。神様のあわれみ、真実な愛が神様の救いの御業の根底にあります。

 

 神様は不正を憎まれ、虐げを嫌われる。ご自分の造られた人間がご自身にあって喜びに溢れることを願っておられる。だから、見ておられ、顧みてくださり、救い主をお遣わしくださった。

 

 二つの意味で、人間は「神はいるのか」と問います。一つは、自分が正しいのに虐げられている点で。もう一つは、自分や他者が悪を行なっているのに裁かれないことにおいて。神様の働きが、正しいことをした時と悪を行なったときに、ただちになされると良いと思う人は多いと思います。神様を直ちに実感できるから。しかし、アダムの罪も、その後の罪も、霊的には瞬時に神様との関係をむしばみ、長い時間を経て死に至ります。これも神様の人間に対するあわれみ、神様の真実な愛です。そして、神様に喜ばれる私たちの正しい行いも、瞬時に報われるのではなく、永遠をかけて報われる。これも神様のあわれみ、真実な愛です。つまり人間は遅かれ早かれ「神様はおられる」ということを実感します。

 

 そうであれば、神様を知る、神様との関係回復を持つことは早い方が良い。今すぐが一番です。それはもたもたして、賢明な選択をしないまま、神様の裁きの前に立たされて悔やむことがないようにするためです。

 

 神の御子がなぜ人となって生まれなければならなかったのか。なぜ、あわれみだけでは十分ではなかったのか。いろいろな答えはあると思います。1つはヘブル人への手紙 2章18節「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」神様だから、人のことはわかるが、あえて人となってくださった。

 

もう一つ、同じヘブル人への手紙4章15節「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」やはり真実の愛に満ちた方であるからこそ、あえて人となられた。素晴らしい神様です。感謝とともに心より私のたましいは主をあがめます。


20231217日 主日礼拝 マタイの福音書118-25「夢でヨセフに」

 

 伝えられる情報に関して、人によって関心があったり、なかったりする場合もあれば、関心があっても、人によって重要度の差があるでしょう。ユダヤの王にヒゼキヤという人物がおり、預言者イザヤが病気のヒゼキヤに「あなたは死ぬ」と伝えると、ヒゼキヤは「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」と言って、大声で泣いた。ところが自分の子孫がバビロンの王宮で宦官となって仕える者が出てくることを聞いても、自分が生きている間は平和と安定であると思って、悔い改めも、とりなしも、嘆願も、改善も何もしなかった。(2列王記20章)

 

 それと同じように、現代でも、自分が生きている間、平和であり、安定していればいいと思うことが多い。化石エネルギーが枯渇しても、地球が温暖化しても、この国の少子高齢化が進んでも自分が生きている間、何とか行ければ問題なしと考える。

 

 日本には王はいませんが、どこの国の王でも、大統領でも、首相でも、その地位にあるものが、国民のことを考えずに、自分のことしか考えないとすれば、その国の者は決して幸せになれない。もし、上に立つ者が、人々のことを大切にするのであれば、その国でも会社でも学校でも、ある程度幸せになれる。もちろん、人々のことだけではなく、神様のことを第一に考えて歩む王、大統領、首相、社長、校長、リーダーがいたら、人々はもっと幸せになれる。

 

 神様は、ソドムとゴモラの叫びを聞き、まず、現地視察に行きます。その際、「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」と考え、アブラハムに伝え、アブラハムの意見を聞き、とりなしを受けられた。悲しいことに、町には五十人の正しい者どころか、十人もおらず、計画は実施されます。しかし、神様は、義人とされたアブラハムに隠さず、告げられたということはアブラムを信頼しており、パートナーとして扱っているからです。(創世記18章)

 

 対比になりますが、サウル王は、ダビデに嫉妬し、ダビデを殺害しようとします。今までサウル王は息子のヨナタンに、大切な事柄を伝えておりました。だから、もし父がダビデを殺害するならば、そのことも知らせてくれるはずだとヨナタンは信じている。しかし、ダビデは、サウル王がヨナタンを悲しませないために、あえて知らせていないのでしょうと言う。ダビデの考える通りでした。ヨナタンに知らせたら、ダビデのように忠実な者は他にはいませんと言って、サウルの殺害計画を阻止するからです。(1サムエル記20章)もはやサウルは息子さえ信頼できない。

 

 神様は、人を救うために、御子を人として遣わされた。アブラハムの子孫を石ころ(マタイ3:9)からでも誕生させることがおできになる神様なので、人を介さず、赤ちゃんでも、青年でも、成人でも、地上に置かれることはできた。しかし、ダビデの子孫としてということなので、人を介さずにというのでは、成り立たない。マリアは、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。(ルカ1:38)と天使を通して告げられた神様の約束を受けとめた。

 

 私が神様を信じていて幸せなのは、神様は人を愛して、人を救ってくださるだけではなく、神様であるのに、人間の友となってくださること。そして、神様が計画していることが一番であっても、それを人間に押し付けず、受け手の了承をとってくださること。もし、受諾できないなら、変更されることもあること。

 

 ヨセフにとっては、いくらマリアが「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と言ったとしても、こっちの身になってくださいと言えたことでしょう。ヨセフが横暴で、自己中心で、わからずやであったのではなく、ヨセフは正しい人であった。だけど、聖霊によって身ごもっているということがどれだけ理解できたか。ヨセフが思い巡らせていたのは、マリアをさらし者にしないということ。そしてひそかに離縁しようということ。

 

 神様はヨセフの思いを知っておられ、直接ではないが、主の使いが夢でヨセフに語られる。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

 

 私たちは、ある現象をいろいろ解釈します。しかし、神様は、事前に、預言を通してことをなされます。特に、メシアの誕生に関しては。たまたまではなく、神様が意志されていることを人間に示すために、事前に伝え、起きたことが確かであることを示します。

 

 また、神様が預言されたことは、たとえイザヤから700年経過しようと、更に主の昇天から2000年経過しようと、必ず実現する。実現しないのであれば、神様は全知全能ではなくなる。全知全能であれば、預言された通りになる。

 

「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」インマが一緒、ヌが私たち、エルが神。インマヌエルの意味は「神が私たちとともにおられる」

 

 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れます。夢を疑わないかった。そして、マリアが出産するまで、マリアと性的関係を持たなかった。そして命じられた通り、この名をイエスとつけた。ヨセフは正しい人です。だから、この二人に神の御子は預けられた。

 

 プロテスタント教会は、神の母と言ってことさらマリアをあがめません。ヨセフに関しては聖書に記されているだけです。だけど、聖書に記されていることはすごいことです。そして神様に「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と御国に迎え入れられたことを思います。

 

 聖書を通して、私たちは、神様と隣人を愛すること、福音を伝えること、善を行うことなど命じられています。命令は今の時代では喜ばれなく、勧められている、求められている、と和らげていうと良いでしょうか。重要度が増せば、夢で見たり、天使に対面したりするのでしょうか。

 

 

 ある国では、国が取り組んでいることが秘められている。国民をだましているからでしょうか。神様はすべてではないがほぼほぼ、ご自身の思いも計画も聖書を通して告げておられる。それは、私たちを幸せにすることです。告げられていないことは、主イエスの再臨の日時です。これには、人間が焦ったり、怠けたりしないための幸いな意図があるのでしょう。


20231210日 主日礼拝 ルカの福音書15-38「御使いを通して語られた神様の約束」

 

 新約聖書はギリシア語で書かれていますが、一般に、ユダヤ人の名前はヘブル語に由来します。バプテスマのヨハネの父ザカリヤは「「主を覚える」か、「主は覚えておられる」という意味です。母のエリサベツは「私の神は誓い」か、「神はわが誓い」となります。アビヤは「私の父は神」という意味で、男性にも、女性にもこの名の者がおり、歴代誌第一の24章に、アロンの子孫で、24組に分けられた祭司の組があり、アビヤは第8組でした。アロンから続くので1500年近くの歴史を持ちます。2節に「二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。」とあり、模範的な夫婦でしたが、彼らには子どもがいませんでした。そして、二人ともすでに年をとっていました。

 

 ザカリヤの属する組が当番で、ザカリヤの受け持ちはくじで決められ、主の神殿に入って香をたくことになった。すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。私は御使いに会ったことがありませんが、会えば、取り乱し、恐怖に襲われるのかもしれません。ただし、聖書を見ると、御使いは相手の状況を見て「恐れることはありません」と言ってくださる。また、相手の名前も知っておられる。そして、神様はザカリヤの願いを知っておられる。それは心にいだいていたことなのか、常日頃祈っていたことなのかわかりません。人間的には、もう、あきらめていたことなのかもしれません。「あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びますその子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされイスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」と語られる。これはすごいこと、恐れ多いことです。祭司として神様に仕えるのも素晴らしいことです。しかし、生まれてくる子は預言者なのか。預言者も大切な働きですが、旧約の民であっても、すべてが神様のことばに従ったわけではない。しかし、生まれる子はイスラエルの民を神に立ち返らせるという素晴らしい働きを担うと告げられる。

 

 ザカリヤは「ありがとうございます。わかりました。」とは言わず、「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」と言ってしまいます。どちらかというと疑っているように思える。ザカリヤは理性的で、合理的で、客観的な判断を下すわけですが、自分が仕えている神様のすごさ、力を理解していませんでした。

 

 御使いのお告げは、神様の視点から見て、良い知らせですが、ザカリヤにとっては信じることのできない事柄でした。ある意味、ザカリヤにとっては受け止めることができない事柄ではありましたが、神様は、告げられた通りのことを行います。一方、妻のエリサベツは「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と受けとめました。主が自分に目を留めてくださること喜べるのは、ある意味、正しいからでしょう。罪人にとっては、神様に目を留められることは恐ろしいことです。しかし、キリストの救いをいただくと、罪人も、神様に目を留めていただいていたことに感謝と喜びが生まれます。エリサベツは、年を重ねても、いや、年を重ねるほど、わが子を抱いたことがなかったことを恥と思っていました。そして、子を宿し、恥を取り除かれたと思う。周りの人を気にすると恥が生じたり、誇りが生じたりしますが、神様に心を向けると賛美と感謝が生まれます。しかし、エリザベツを喜ばせたのは子の誕生であって、生まれてくるヨハネが担う神様の働きの方ではない。神に仕える模範的な夫婦も、神の働きより、自分たちの面目が先になっている。

 

 イエス様より約半年早く誕生するヨハネ。イエス様の公生涯開始が30歳とすると、ヨハネは30歳の前半で、ヘロデに殺されることになります。おそらく、ザカリヤとエリサベツはその前に帰天したのでしょう。だから、気持ちが高められ、突き落とされるということはなかったでしょう。自分たちよりもヨハネが先に死んでいたら、神様に仕える喜びよりは、むごさを感じたでしょう。しかし、ヨハネ自身はすべてを受けとめています。

 

 妊娠・出産の適齢期というものがあるとすると、エリサベツはその時期を逸したにもかかわらず神様が夫婦に子を与え、ガリラヤのナザレに住む処女マリアには、結婚前に、聖霊によって胎に子を預けられます。お告げのないまま、妊娠したとなれば、特別のものではなく、通常のことですが、いずれのお告げ、神様の約束も、ガブリエルによって伝えられます。特別の意味、特別の使命・役割があったからです。ガブリエルは「神の人」あるいは「神は神ご自身を強いものとして示された」の意味。ヨセフは「神が加えてくださる」の意味。マリアはミリアムと同じで「苦しみ」という意味もありますが「愛された」の意味です。

 

御使いがいきなり「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と言うので、当然マリアは「ひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」が御使いは、ここでも「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」と、想像もつかないことを言う。あるいは、マリアは、ダビデ王の家系であることを思っていたかもしれませんし、旧約聖書の約束を覚えていたのかもしれません。

 

マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」と聞きます。御使いは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは何もありません。」という言葉で納得しました。そして「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と答えます。マリアは素直で、聡明で、度胸というか、覚悟というか、神様の告げられる約束をしっかり受け止めるという信仰を持っていました。

 

今の時代でも、御使いが現れて、神様の約束を告げられる可能性があることを否定しません。しかし、大方、私たちには聖書に記されていることが重要だと思います。誰にでも語られていることなのか。いや、誰にでもない。信仰をもって受けとめる人にしか響かないのではないか。信者か信者ではないかより、聖書に書かれていることばを神様が私に向けて語られていると信仰をもって受けとめるのでない限り、書かれていても、語られても、届かない。しかし、受けとめるのであれば、国籍も老若男女も関係なく、力が伴います。


2023123日 主日礼拝 マタイの福音書11-17 「主イエスの先祖の記録」

 

 今日は、マタイの福音書とルカの福音書から、イエス様の家系を見ます。

 

 私は身上書とか、釣書を見たこともなければ、書いたこともありません。結婚相手を決めるとき、見た目だけで決める人もいるでしょうが、大抵、その人物がどのような人間なのか、その人を観察したり、聞いたりして、決めると思います。もちろん、日本の憲法であれば、成人した男女の結婚は両性の同意のみに基づいて成立しますが、親や周りの助言が絶対ではないものの、参考にすることもあるかと思います。

 

 中には、相手の人柄だけではなく、家柄、学歴、職業、収入、健康状態、将来性なんかも調べるのでしょう。ただし、私の場合、曾祖父までは遡れても、それ以上は遡れません。誰でも、親や先祖の仕事や人柄ではなく、自分自身を見てもらいたいと思いますが、様々な情報は参考になっても、絶対ではありません。仮に、かつては豪族で、城主で、地元の名士だとしても、今は普通の人であれば、やはり、先祖の過去は重要案件ではありません。今は普通の人でも、将来著名な人物になるかもしれません。

 

 二つの福音書に、なぜ、イエス様の先祖の記録、つまり、家系が記されているのか。もちろん、イエス様は独身でしたし、結婚に関係するものではありません。イエス様の生きられた文化が、家系を大切にしてきました。旧約聖書にも記されていますが、祭司の家系のものでなければ、祭司になれないということがあり、エズラ書、ネヘミヤ書に記されていますが、他の民族との結婚が許されず、他の民族と結婚していた場合、離婚を求められるようなこともありました。

 

 さて、ユダヤ人であるマタイが書いた系図は、信仰によって義とされた信仰の父アブラハムが重要人物で、アブラハムの子孫であること、また、ダビデの子孫であることが記されています。

 

 そして、マタイは収税人であったためか、福音書全体では37などの数字にこだわっている部分があり、ここでも17節、アブラハムからダビデまでが14代、ダビデからバビロン捕囚までが14代、バビロン捕囚からキリストまでが14代です。確かに、アブラハムからダビデまでは14代ですが、次は、再びダビデをカウントして、エコンヤまでが15代となるので、ダビデを抜いて14代。

最後シュアルティエルからイエス様まで、13代です。なのでダビデからヨシヤを、ダビデも含め14代とし、捕囚で切って、エコンヤからイエス様までが14代でとなります。つまり、ダビデは2回数えられていることになるか、一人抜けたかということになります。

 

 これは聖書に間違いがあるということか。そうではなく、そのように数えているということです。皆さんが旧約聖書と照らし合わせてみると、ヨラムとウジヤの間にアハズヤ、ヨアシュ、アマツヤが存在していますが、このリストから外れています。いろいろ理由が考えられますが、単純に3つの14代に収めるためです。また、アハズヤは北王国の悪王アハブの子と同じ名であり、母はオムリの孫娘。そう言うこともあり、アハズヤの子ヨアシュは北イスラエルに協力的でした。だからアハズヤ、ヨアシュ、アマツヤは抜き、ウジヤから入れたと理解できます。そして11節ではヨシヤとエコニヤの間のエホヤキムが省かれています。やはり、14代にするためです。

 

 しかし、ユダヤでは女性は余り表舞台に出てこないのに、ペレツがユダとタマルによって誕生したこと、ボアズはサルマと遊女ではないかと言われるラハブから生まれたこと、オベデがボアズとルツによって生まれたこと、ソロモンがダビデとウリヤの妻バテ・シェバによって生まれたことを記しています。

 

 ある面、人には隠しておきたい事柄が堂々と記されているわけですが、この家系図では、それよりは不信仰であること、神様よりも偶像に頼り、偶像を拝む家系を除去しているように思えます。当然、人のいのちは父と母がいなければ誕生しません。だから、タマルの偽装売春婦、ラハブの売春宿の女主人としての職業、異邦人ではあるが、ナオミの信じる神を自分の神としたルツ、そして、夫を持ちつつも、ダビデに近寄るバテ・シェバではあっても、不思議なことに、キリストの家系に加えられています。これは、彼女たちの熱心以上に、生い立ちや家庭に様々な事情を抱える私たち人間を救うための、神様の決意を示していることを思います。

 

 人間、だれでも、すべてをご存知の神様のもとには、近りがたい。しかし、過去や血筋を問うのではなく、信仰を問われる神様を現わしているのでしょう。

 

 マタイではアブラハムからヨセフまで若い世代に向かって記されていますが、異邦人向けに記されたルカの福音書では、ヨセフからアブラハムまで、そしてアダムと神様までさかのぼります。ある人はこの家系図はヨセフ経由の家系図とマリア経由の家系図といいますが、それを確信させる手掛かりはありません。ただ、双方で名前が違うのは事実。マタイ(ダビデ-ヨセフ27)は王としての法的系図、ルカ(ヨセフ-ダビデ42)は実際の父親ではないかと言われます。

 

これらのイエス様の系図で言えるのはヨセフとマリアは紛れもなく、アブラハムの子孫であり、ダビデの子孫です。

 

 そして、ヨセフとマリアは人間ですが、イエス様は人間になられたということ。マタイの福音書116「ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。」とあり、今までは父が子を生んだ、正確には「もうけた/得た」ですが、ここは「マリアからお生まれになった」という。

 

 ルカ3章23節前半では、「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。」とあり、みんなてっきり、ヨセフの子だと思っていた。しかし、主イエスの誕生までは、ヨセフとマリアの子が生まれるという関係になかった。

 

 イエス様の誕生の経緯が別に書かれているので、ここではっきりさせなくていいのですが、そのことを示唆するものです。

 

 

 その国の法律によっても違うでしょうが、ヨセフは主イエスの法的な父であったと言われます。それは外形的にと言えますし、マリヤを妻としたので、妻であるマリアの子に対して、ヨセフは父となります。しかし、聖書では処女から生まれたこと、よってアダムの罪を持たないとみなします。そして、預言通り、約束通り、神様の意志によって人となられたことを覚えます。


20231126日 伝道礼拝 ヨハネの福音書737-39 「わたしのもとに来て飲みなさい」

 

 人によって、暑い、寒いは感じ方が違うと思いますが、今年の夏はとても暑い日が続きました。いつも夏場は、脱水症にならないように水分を十分に補給するように、熱中症にならないようにクーラーを使用するように勧められます。しかし、自分ではのどが渇いていないとか、渇いているけどトイレに行くのが面倒だとか、このぐらいの暑さは大丈夫だとか、昔はクーラーがないのに乗り越えてきたと、節約もあったり、頑張ってしまうことがあります。

 

 しかし、今は昔より、世界的に平均気温が上がり、東京だって、昔と今では、舗装道路、建物が増え、畑や原っぱは縮小していると思います。そして、私たちの身体も、みずみずしかった幼少期、少年期、青年期とはちがう。

 

 聖地旅行でイスラエルに行くのは花の咲く3-4月に行くのが良いとのこと。しかし、今はガザ地区との戦争でいつ行くのも危険だと思います。私は神学生の3年の時、選択授業で、発掘と聖書地理の学びのために夏休み期間の7-8月に、4週間滞在しました。体がアイスクリームのように溶けてしまうような暑さ。作業は日の昇る前の4時から10時半まで。昼は昼食をとって昼寝です。一番しっかり語られた注意事項は水分補給でした。発掘中は現場に大きなタンクがあって、好きなだけ水が飲めたのですが、車で北や南に行くときは、お店で、2ℓペットボトルの水を買って、11-2本空けるわけです。日本でも、ペットボトル入りの水は売ってはいましたが、当時は正直、水を買うのは抵抗がありました。でも水分を取らないと、若くてもいのちの危険があります。

 

 さて、今日の聖書箇所は、仮庵の祭りのことと思われます。シロアムの池から水が運ばれているそうですが、イエス様は大きな声で「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」と言われた。ヨハネはその生ける水とは、キリストを信じる者がペンテコステの日とそれ以降に受ける聖霊であると解説しています。それは神様との霊的交流のこと。

 

 私たちのさまざまな言動にはそれなりの理由があります。愛されていても、愛されていると自覚しなければ、愛されることを欲する。愛されることを欲するのは全く悪くはないが、間違った方法によることもある。間違ったゴールもある。ストレスは誰でも感じると思いますが、適度な栄養や休息であればいいが、そのストレスが過剰になり、対処も過剰になる。アルコールや薬物、ギャンブルなど、本人がそれに依存してしまうのも良くない。

 

 強いストレスを与えてしまうのも人間の罪のせいです。そして、適切な対処ができないのも罪のせいです。罪のせいで、人は造り主から離れてしまった。造り主の元に戻ればいいのに、罪のせいで元に戻れない。しかし、感謝なことに、イエス様が、私たちのところに来てくださった。人間はエデンの園から追放されたが、イエス・キリストによって、聖霊なる神様が私たちのうちに住まれ、私たちの心を潤してくださる。

 

 面白いことに、ヨハネの福音書では、イエス様が渇きのことを続けて語っています。前後しますが、4章では、イエス様はユダヤ人が避けていたサマリヤに行き、真昼に井戸の水を汲みに来た女性に「わたしに水を飲ませてください」と語り掛け、ぶつぶつ言うその女性に「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」という。それでも理解できない女性に「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」という。そして、イエス様とのやり取りを通して、この女性もイエスがキリストであることを知り、町の人々もキリストを信じます。彼らはキリストとは何かを知っていた。キリストとは、神の働きのために神様に油を注がれた人物です。人々の救いのために遣わされた救い主ということです。しかし、はじめは、目の前にいるこのお方が救い主だとは知らなかったし、必要ともせず、期待もしていなかった。自分の罪、たましいの渇きを知る前は、私たちにとっても、イエス・キリストはいてもいなくてもどうでもいい存在だったかもしれません。

 

 6章でもイエス様は「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」と語られました。ご自分をいのちのパンですという。食べるとは、からだの中に入れること。つまり、イエス様を信じることを指しますが、すると、永遠のいのちを持つと語られます。このことが理解できなく、拒絶した人もいました。

 

 キリストであるイエス様のことは当然、旧約聖書でも書かれていますが、イザヤ書55章では1「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。2 なぜ、あなたがたは、食糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。3 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。」とあり、更に、6 「主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。7 悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」とあります。

 

 主イエスは「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」(マタ 5:6)と語られました。そして、私たちを救うために、主イエスは十字架の上で、「わたしは渇く」と表明されました。黙示録でも、「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。」(黙 7:16)とあります。「・・・わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。」(21:6)、「・・・渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」(22:17)とあります。神様から離れている故に渇いている。潤っていない。自覚できないのは罪の故。今少しでも、魂に渇きを覚えているなら、主イエスのもとに来て、主イエスを信じ、心に溢れる御霊を内に宿す者とさせていただきましょう。

 

 

黙 3:17「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。


20231119日 主日礼拝 ヨハネの福音書11- 18 「神が人となった」

 

 聖書66巻のうち、11節を暗唱している書というと、創世記11節の「はじめに神が天と地を創造された。」が一番多いでしょうか。次が、ヨハネの福音書11節の「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」でしょうか。一番最後の節で、暗唱できるのは少ないかもしれませんが、祝祷の時の、コリント人の手紙第二の1313節「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」でしょうか。

 

 間もなくアドベント、そしてクリスマスを迎えますが、イエス様の誕生について、福音書に記されているのは、マタイとルカだけと言われるのですが、実は、ヨハネの福音書は別な観点から、イエス様の存在と人としての誕生を語っています。

 

 初めにことばがあった。この「ことば」と訳されたギリシャ語は「ロゴス」と言います。ロゴスにはいろいろな意味があって、ことば、事柄、計算、価値、答弁、理由、関係、割合という意味を持ちます。この箇所ではことばと訳すのが一番妥当です。そして、このロゴスは人として生まれる前の「先在のキリスト」を示します。「先在」とは受肉前、人となる前です。

 

 天地を造られたのは神様ですが、その神様はどなたか。私たちはてっきり、父なる神様を思い浮かべますが、三位一体の神様で、3節で「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」、またコロサイ人の117節からも、「御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。」ということが分かります。つまり、新約聖書を抜きに、このことを知り得ない。また、父と子というと、私たちはすぐ「父が先に存在する、次に御子」と考えたり、「母なる神がいないと、子は生まれない」ということになります。しかし、聖書の記述、論理は、私たちが想定することと異なることがあります。

 

 ことばとともにあった神は、「父」と断定できるか。「そうです」と言いたいのですが、三位一体の父と聖霊を言っています。そして、神とともにいたことばもまた神でありました。2節の「この方は、初めに神とともにおられた。」は1節の繰り返しとなります。

 

 キリスト教の異端は、唯一の神を否定するもの、三位一体の神を否定するもの、キリストが人となったことを否定するもの、キリストが神であることを否定するものです。なぜならば、聖書では、神様が唯一であること、三位一体であること、キリストは神であり、人になったことを教えるからです。ほぼほぼ、似通っていることを語りつつも、大事な点で異なっていたら、「似て非なるもの」ということです。聖書を否定して、キリスト教はなく、聖書を書き変えて、キリスト教というのもおかしなもので、異端は、キリストの威光を借りているだけです。

 

 4節、「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。」とあります。父と聖霊にはいのちがないというのではなく、イエス・キリストを通して、私たちは三位一体の神様のうちにいのちを持ちます。また、いのち=人の光です。イエス・キリストを通して、人生を照らされます。5節の闇はこの世界、罪によって悪魔に支配されているこの世界ですが、私たちの中に光となっておられる神様に、悪魔は打ち勝てないということは、神に従い、神を愛する者には喜びです。

 

 さて、ヨハネの福音書を記したのは、12弟子のヨハネですが、神様から遣わされた一人の人ヨハネとは、バプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネは、イエス・キリストが光であり、すべての人がキリストを信じるように、神様に遣わされました。実際は天から遣わされたというよりは、この使命をもって生まれ、生かされました。バプテスマのヨハネはキリストの露払い、先駆者として、当時大きな脚光を浴びました。しかし、バプテスマのヨハネは光ではなく、光であるキリストを証しするために用いられます。

 

 すべての人を照らす光、神の御子、イエス・キリスが世に来ようとしていた。私たちは地上と天を分けます。しかも、厳密に言うと、神様が造られた天地と、神様のお住まいになる天も分けます。ある人は鳥が飛ぶ空と、雲が浮かぶ空と、大気圏、さらに宇宙空間と分けるのですが、そもそも神様との交わりから私たちを絶ってしまったものは罪でした。罪がなければ、神様との交わりがあった。だから、9節の、光が世に来ようとしていたのも確かであり、10節の、この方はもとから世におられたというのも、確かです。しかし、罪の結果、「世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」結局は11節、イエス・キリスは「ご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」それはユダヤ人のみを言うのではなく、全人類です。

 

 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」この人々は、「血によってではなく」、すなわち、ユダヤ民族だからというのではなく、「肉の望むところでも人の意志によってでもなく」、すなわち、人の願望や努力や意向によるのではなく、「ただ、神によって生まれたのである。」すなわち、救いは神様の一方的あわれみであり、恵みです。

 

 神の御子であるイエス・キリスは、人となって、人々の間に住まわれた。「私たちはこの方の栄光を見た。」の私たちは、聖書記者ヨハネを含むキリストを信じた人々。信じなかった人も含むでしょう。そして、時代を超えても、イエス様の姿を見たもの。栄光とは、名声、栄誉、尊敬、賞賛、賛美、輝く、尊厳、偉大、威光、華美、栄華、素晴らしさです。イエス様にお会いすれば、立っていられないのではないかと思います。イエス様は「恵みとまことに満ちておられた。」

 

 バプテスマのヨハネは人々に、キリストではないかと期待されていたが、本人は「私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです」と言い、イエス様が来られたとき、「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」と叫びました。

 

 イエス様がともにいてくださるとは、安心であり、励ましです。病が癒され、悩みが解決し、これまでの苦労が慰められる。それを「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」と語ります。面白い言い方ですが、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 

 

 人が神になるという表現は歴史の中で使われていますが、本当の神様が本当の人間になられたのは、イエス・キリスだけであり、私たちに恵みと救いをもたらせてくださったことに感謝します。


20231112日 ファミリー礼拝&子ども祝福式 マタイの福音書1913-15 「神の祝福」

 

 自分の子どもの頃のことを皆さんはどれだけ覚えているでしょうか。私たち夫婦には、成人した二人の子がいますが、不思議に、彼らはあまり子どもの頃のこと覚えていません。正確には、私たちが覚えていることは覚えていません。だから、その反対もあると思います。ただ、写真があったり、親と子どもがお互いに、「こんなことがあったよね」、「こうしたよね」というと、お互いに思い出したり、記憶が深まるのかもしれません。

 

 イエス様はもともと神様であり、その神様が人となったので、ご自分が人として生まれる前の記憶や生まれてからのすべての記憶を持っていたと思いますが、それについては聖書にすべてが書かれているわけではありません。さて、ルカの2章では、ベツレヘムでお生まれになり、飼葉桶に寝かせられ、八日目には、御使いが胎に宿る時に告げられた「イエス」という名前を付けられ、両親とともにエルサレムに行き、最初に母の胎から出てきた男子として、神様に捧げられました。

 

 その間、キリストを見るまでは決して死を見ることがないと聖霊に告げられていたシメオンは幼子イエスを抱き、神様をほめたたえました。アンナという84歳の女預言者もイエス様のことを語ります。シメオンにとっても、アンナにとっても、救い主イエス様にお会いできたことは祝福でした。もちろん、すべての人にとって、イエス様にお会いすることは祝福です。

 

 マリアもヨセフも、イエス様の妊娠が神様によるということを知っていながら、エルサレムでシメオンとアンナに会うという、不思議な体験をします。イエス様は心身共に成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神様の恵みがありましたし、両親は毎年エルサレムに来ていました。

 

 小さい赤ちゃんもかわいいですが、ハイハイし、立って歩くようになり、お話しする子どもたちもかわいいだけではなく、微笑ましく、将来が頼もしいものです。

 

 たいがいのことは、子どもが大きくなるまで、親が子を守り、育てますが、すべてのことを親だけでできるのではなく、保育所や学校、地域や教会で、人々のまなざし、愛情、助けのうちに育ちます。

 

 さて、イエス様がキリストとして、地上で過ごされたとき、イエス様は人々に聖書のことを教えたり、病気の人を直されたりしていましたが、不思議と、子どもを持つ親たちは、子どもをイエス様のところに連れてきました。年に何度か、神様を礼拝にエルサレムに行くことはありましたが、みんなが家族で行けるとは限りません。そして、子どもを連れて旅をするのは実際は大変です。でも、イエス様が自分たちの町に来ているのならば、これはいいチャンスです。イエス様に健康や成長の祝福をしてもらおうと考えたのでしょう。

 

ところが、イエス様の弟子たちは親の気持ちはわからなかった。イエス様は病気の人をお癒しするのに、忙しい。子どものために、祝福してはいられないと考えた。

 

イエス様は「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」と言われ、イエス様は子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されました。

 

 大人でも子どものような人がいますし、子どもでも大人のような人がいますが、「子どものように神の国を受け入れる」とは、神様がおっしゃるので、そのことを信じますという態度です。聖書には、神様を敬い、神様のことばを素直に受け止めた人々が大勢います。なんでも信じるのではなく、誰が言っていることか、しっかりわきまえています。

 

 実は、イエス様の弟子でも、イエス様がおっしゃることを受けとめることができない者もいました。一番大きかったのは、イエス様が「エルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないこと」ということでした。

 

 モーセを通して与えられた10の戒めに「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。」という勧めと励ましがあります。このことを含めて、イエス様が大切だと教えてくださったのは、『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』と『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』ということ。こうすることは子どもだけではなく、すべての人にとって、神様の大きな祝福となります。

 

 さて、もう一度、イエス様のことばを見ます。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。」ここでは、年齢的に、体格的に、子どもと言われる者の他に、神様に造られた神の子どもたちと広げて考えましょう。イエス様のところに行こうとしている時、従おうとしている時、それを阻止する存在は、悪魔であったり、もう一人の自分であったり、他のだれかであったりします。あらゆる理由を持ち出して、納得させようとします。まだ若いとか、まだ早いとか、もう遅いとか、今は忙しいとか、疲れているとか、時間がないとか、稼がなければならないとか。どれももっともな理由です。しかし、イエス様が与えてくれる祝福は、地上のレベルと違う。御国の視点から見れば、捕らえ方が違って来る。神様の側から見た視点を持たずに、人間的視点でばかり物事を見ていると、休息も、励ましも、祝福も受けないままになってしまう。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」

 

 

 イエス様はご自分の手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。子どもたちばかりか、子どもたちを連れてきた人々も、はじめ子どもを邪魔者扱いした弟子たちもみんなイエス様の祝福を受けることになります。そして、イエス様を知ったこと、イエス様と共に生きることを喜びとします。神様の祝福は一瞬ではありません。ずっと続きます。そして、その祝福が続いていることを確認することも時折、必要なことです。


2023115日 主日礼拝 ルカの福音書11- 4 「福音書-目撃証言と調査報告-

 

 一人で聖書通読するのは最も早い人々で4日とのこと。普通のキリスト者は毎日15-20分読んで1年。牧師は11時間ちょっと読んで3ヶ月。ところで、一人の牧師が同じ教会で、順番はともかく、聖書すべてから礼拝で説教することは可能なのかと考えると、40年かければできたとしても、結構難しいことではないかと思います。

 

 では、イエス様の生涯と教えを記す4つの福音書で、どこを語ると良いか。注解書の執筆から見ると加藤常昭牧師はルカの福音書、佐藤彰牧師はマルコの福音書。日本伝道会議でお会いした牧師はマタイの福音書という。その友人の遠藤勝信牧師はヨハネの福音書でしょうという。どれも特徴があって、取捨選択するのは難しい。それでも、恵庭にいたとき、ルカの福音書を見たので、光の子では大きく視点の変わるヨハネがいいのではないかとも考える。ただ、マタイ、マルコ、ルカは共観福音書と言われるが、その理解がないとヨハネの福音書の視点が大きく変わると言ってもわからないでしょう。とても欲張りと思いつつ、主の生涯と教えをすべて受けとめるために、共通点は共通点とし、違いは違いとしてとらえ、ユニークな点はユニークな点として、読み進むのはいかがでしょうか。もちろん、伝道礼拝、ファミリー礼拝もあるし、旧約も見ることになると思います。

 

 各福音書を書いた人は、その福音書の名前のとおりです。ただ、マルコの福音書は、ペテロが語ることをマルコが記したと思われます。それぞれの福音書を書き終えた年月日、いつの出来事を記しているのか、その年月日、そういう記載があれば、後世の人の考察ではなく、確定できるのですが、今はそれはかないません。

 

 一般に、まずペテロがマルコによって書き記したものが完成し、マタイがユダヤ人の視点で、マルコに記されていないことも含め記し、12弟子ではないルカはさらに入念な調査をもって記したと理解されています。それでこの3福音書は共観福音書と言われる。ヨハネはさらに別な視点で、記されていないことを書いた。特に、イエス様が十字架にかけられる直前の記事が、21章中の後半の9章に集中します。

 

 聖書は神様の霊感によって記されていますが、書き手の特徴も持ちます。マルコの福音書は「すぐに」というのが特徴的です。それでも、イエス様が十字架にかかり、よみがえられてからすぐに記されたのではなく、ややしばらくしてからです。そういう点では、すべてのことというより、ポイントが絞られています。そして、再び天からすぐに主イエスが来られるならば書き記さなくても、皆の胸のうちに鮮やかに残るものがあったのでしょうが、人間が主イエス様の生涯と教えを書き残す必要があると考えたというよりは、ここも、聖霊に促され、聖書が書かれました。それは、旧約聖書を通して、天地創造、人の罪などを知るように、広い世界に対し、直接主イエスにお会いしていない人々に対し、そして次の世代に対して、口伝だけではなく、伝える手段としての聖書が必要になってきた。それも、世界を救う神様の愛が基となっています。

 

 一例として、ナビバイブルではマルコは紀元5565年、マタイは6065年、ルカは60年頃、ヨハネは85-90年頃に書かれたと考えられますが、マルコにある31節以外はすべて他の福音書に記されており、マタイは旧約聖書の引用が多く、ユダヤ人に向けて書かれ、ルカは異邦人に理解しやすいように記されています。

 

 ルカはコロサイ人への手紙414節に、「愛する医師のルカ」とあり、福音書の中からも、医師と視点を持つことが分かります。そして、女性への視点も他の福音書から見ると違いがあります。

 

 1-2節の「私たちの間で成し遂げられた事柄」とは、イエス様の教えと十字架による贖罪、そのイエス様への信仰を中心とした事柄です。「初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちが私たちに伝えた」とは、12弟子、ユダに代わったマッテヤを含む12使徒でしょう。多くの人が福音書を書き上げようとしているとは、マルコとマタイを言うのか、正典ではない、外典と言われるものを指しているのか、私はわかりません。

 

 聖書の正典論の授業で、銀行員が本物と偽物の紙幣を区別する訓練が示されました。それは精巧に作成された偽物を観察するのではなく、ひたすら、本物に触れ続けることだと。よって、聖書は66巻以外は触れないようにしています。ただし、一度、続編付きの聖書を読んだことがあり、ギリシア語訳のエステル書を読んだ時、その脚色の多さに違和感を感じ、ストップしました。それからしばらくして、続編を読みましたが、違和感は拭えず、あえて、聖書66巻に含まれないものに目を向けなくても、失うものはないと確信しています。

 

 マルコはエッセンスを記していますが、ルカは、3節にあるように、綿密に調べています。両方が大切だと思います。ルカは、福音書でも使徒の働きでも「テオフィロ」という名を出していますが、この人が調査と執筆の費用を出したのではないかとも言われますし、テオフィロとはテオス・フィレオーと言って、神を愛するという意味なので、すべてのクリスチャンに向けて書かれているとも言えます。

 

 世の中には、聖書を読まずに信仰を持つ人もいます。反対に、聖書を読んでから信じる人と信じない人もいます。ルカは、この聖書を通して、教会で教えられていることが確かであることを読み手にわかってもらいたいと願っています。

 

 マタイは信者に与えられている権威を携えて人々のところに出ていくことを命じます(マタイ28:18-20)。ヨハネは、イエスが神の子キリストであることを、読み手が信じ、イエスの名によっていのちを得るために記しています(ヨハネ20:31)。また、救いとは、私たちは罪の赦しとか、永遠のいのちを持つことであると理解していますが、ヨハネの福音書17章3節では「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」とあります。そういう意味で、聖書を1回読んだ、何回読んだとか、もうイエス様を信じているから読む必要がないのではなく、信仰に生きる糧として、また、自分の生き方を確認するために、天に召されるまで、長い短いにかかわりなく、コツコツ読み続けるものです。

 

 

 新たな発見があれば、それは嬉しいでしょう。しかし、既に知っていることであっても、それに従って生きているか、確認し、御霊の導き、助けをいただき、歩めると幸いです。聖書に書かれていることは確かであり、それに従う時、私たちは真に幸いな者となります。


20231015日 主日礼拝 ルカの福音書910 「宣教のケア」

 

 岐阜市長がクリスチャンであることを知って、友達になろうと思って近づいていった在日フィリピン人の宣教師は、市長とすっかり仲良くなり、大会期間中、岐阜駅で、二人で2回、トラクト配布をしたとのこと。岐阜市長は市長の権限でキリスト教信仰を強いるのではなく、同じ目線に立って、福音を伝え、本人の意志で信仰を持ってもらいたいとのこと。世の中にはいろいろな壁があるけれど、仲間には、心を開き、自分が信じているイエス様のことを聞いてくれる。

 

 1945年に第二次世界大戦が終了し、この日本で、食糧支援もあり、キリスト教ブームがありました。戦争に負けた直後の玉音放送では多くの国民が泣き崩れたものの、天皇を中心とした世界観に愛想をつかした人々もいたでしょうし、敵であった欧米の人々と直接出会い、その優しさ、合理性、自由さ、豊かさに触れ、あこがれることもあったでしょう。

 

 しかし時代はいつでも時計の振り子のように右にふれては左にふれる。日本らしさを再評価して、外国からの文化、考えを拒絶し、聖書の教えをバタ臭いと評することもある。キリスト教が単なる憧れで、一度触れれば十分で、本人の生き方として受け入れられなければ、はやりすたりのあるブームとなってしまう。

 

 真の回心をした人は、キリストとともに生きる。福音書に種まきのたとえが書かれています。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。また、別の種は岩の上に落ちた。生長したが、水分がなかったので枯れてしまった。また、別の種は茨の真ん中に落ちた。すると、茨も一緒に生え出てふさいでしまった。また、別の種は良い地に落ち、生長して百倍の実を結んだ。」(ルカの福音書8:5-8)種は福音で、種をまく人がどこに種を播いたか、場所が良し悪しされるのではなく、種をまかれた人の心がどうであるかが問われます。豊かな実を結ぶのは良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結ぶ。福音の種を蒔いたのに、実を結ばないからと言って、蒔いた人が落ち込んだり、逆に、豊かな実を結んでも、蒔いた人が誇るのではない。聞いた人自身が実を結んでも誇ることではない。成長させてくださるのは神様である。

 

 福音を語って燃え尽きてしまう人がいる。ある意味、頑張りすぎです。どんなに頑張ってもいいですが、休息は必要。栄養補充も必要です。エリヤも信仰の戦いをして、燃え尽きそうになったが睡眠と食事をとって回復した。

 

 クリスチャンホームには4つの危機があると言われます。中学生になって部活動をすると礼拝に出られなくなる危機。大学生になって親元を離れると誘惑が増える危機。大学を卒業して就職時の危機。そして結婚期の危機。環境が代わり、関係が変わると、みんな危機を通る。他にも注意を必要とする時があり、転勤・転居で教会が変るとき時、牧師が替わる時、病気など、試練に会う時、政治体制など、厳しくなるとしても、緩やかになるとしても、世の中が変わる時、責任を負う時、責任を解かれる時、信仰が試されます。だから、いつも祈っていること、目的やゴールを見据えて歩むことが大切です。

 

また主の働きは、一人で担うのではなく、チームで担う。清水勝俊先生ご夫妻、清水正夫先生ご夫妻がロンドン、パリで働けるのも、祈りとささげもので支援してくださる方々がいてできる。支援会が双方をつないでいる。宣教師は支援会がないといくら召しがあっても、遣わされないし、続かない。

 

 教会にはそれぞれが賜物を与えられているのに、日本の教会では「私なんかには」と思う方が多いかもしれません。光の子は、何度も脱皮して、賜物が生かされていると思います。

 

教会も、いろいろな面で世代交代がなされています。若い人たちにできるのかと心配する人もいるけど、ちゃんと担っています。「まだまだ若い」と言っているとすぐ時間が経過してしまう。ベテランも段々皆さんの助けが必要になる。忘れてしまうことが出てきて、出来なくなることも生じる。だから未経験者がだめで、経験者は大丈夫なのではなく、それぞれ支え合うのが主の教会です。

 

 今は様々な国から日本に来られる方が多い。この人々に福音を伝えるられないか。コロナ前は2018年のデータですと、中国から93万人、韓国から53万人、ベトナムから29万人、フィリピンから28万人、ブラジルから19万人、以下、各国から来て住んでいます。これが去年の10月のデータでは、中国は74万人、ベトナムが韓国を抜いて47万人、韓国41万人、と続きます。日本と相手国との関係によって増減します。また、今は日本語学習とか、アニメ文化とかではなく、技能実習ということで入国している人々もいます。ところが、技能実習生へのパワハラや奴隷扱いもあり、逃げ出す人も。オーナーがキリスト者でもないが、国内における世界宣教を考えるなら、並行して、国内の宣教も大切です。

 

 日本では外国人に対して、不動産屋が冷たいと。しかし、教会も外国籍のキリスト者に冷たく、会堂を利用していない時間でも貸してくれないとのこと。彼らも午後4時から6時と言いつつ5時に来て8時に散らかしたまま帰るとか問題はある。日本人と外国人という視点ではなく、お互い、主にある家族として助け合うことはできないのか。日本人は外国人に「助けてください」とは言わない。しかし、農業、漁業、工業、サービス、福祉など様々な分野で、実際外国人に助けられている。ある外国から来たクリスチャンで、子や孫は日本生まれ、日本育ち。神様を信じているが、日本語が出来ないので、子や孫を霊的に十分に育てられなく、日本の教会に助けてもらいたいとのこと。そして、日本の教会で育てられた人々は日本の教会で主のために喜んで奉仕する。

 

 いろいろな形態での宣教の働きができるのは、ある意味、神様の創造性であり、教会があって、信者がいるからです。そして同じ信者でも、いろいろな物を見たり、触れたり、また執事として歩むことは、より広い範囲を見ることができます。意見や方法が一つではないことも理解します。そして、主の教会がより主の教会としてふさわしく歩むことができます。牧師一人では、何もできないのが事実です。

 

 113日に西関東地区の役員研修会が光の子であります。役員でなくても参加できます。役員とはどんなことをするのか。どんな学びになるかわかりませんが、立てられる講師の視点で語ってくださいます。是非参加してみてください。

 

 宣教の後で、主イエスは使徒たちが休息をとるために秘かにベツサイダに退かれたのに、群衆がついて来た。ということは予定通りにはならないこともある。だからあきらめろということではない。基本は6日働いたら1日休む。その1日は主に心を向け、身体も心も整えていただきます。

 

 

 せっかく、外国で信仰をもって帰国された兄弟姉妹が、日本の教会に適応するのに苦労するとのこと。すべて私たちが担えることではないと思いますが、与えられた賜物を用いる一人一人でありたいです。


2023108日 主日礼拝 コリント人への手紙第一919-23 「福音のために」

 

 牧師としての働きに召された者には、そのための学びの場があり、宣教師に召された者は、そのための学びの場があります。実はパウロもガブリエルの下で聖書を学び、聖霊に扱われていますし、旧約のサムエルの時代、サムエルが預言者を訓練していました(1サム19:20)。イエス様もよく聖書を学ばれています。現代では、まずは、教会が、学びと訓練の場であります。各宣教団体は、例えば、OMFはシンガポールに宣教師訓練センターがあります。日本から遣わされる方々は聖書学校、神学校を経て、宣教師訓練センターに行ったり、場合によっては、英語力をつけるということもあります。

 

 今日は、日本伝道会議で出席した分科会から、報告し、宣教と宣教協力について考えます。実在する人物ですが、お名前と派遣国は公表しません。というのも、仏教国で、宣教師は受け入れていない。彼は、宣教師になることは明確だったが、どこの国に行くか、わからなかった。神学校で学びながら、「国が示されないならば、行くのをやめてもいいですよ」と神様に伝えていた。当時の校長先生も、宣教師であった人で、彼に「神様は明確に命じることもあるし、反対に、明確に禁じることもありますよ」と。それで、ミッショントリップをしたそうです。タイにも行きました。そして、ある国に行くと、「ここだ」と確信を得たそうです。その国の言葉を学び、それから、村長に会いに出かけ、一回目はお茶飲み気楽に歓談し、二回目、本題の福音を語りますが、拒絶されます。村長から、危険人物のお触れが出て、1期滞在中、他の誰にも福音を語れなかった。自分は宣教師にはふさわしくないのではないかと悩み、帰国し、鬱になる。全く祈れなかった。全く聖書を読むことができなかった。だけど、2期目、同じ国に行くことにします。

 

 自分は仏教のことは何も知らず、キリスト教のみが唯一絶対のように、勝利者、征服者のように振る舞っていたことを悔い改め、仏教僧でもあった村長のもとに行き、仏教を毎日1時間、多い時は2時間、学ぶことにします。村長は喜んで教えてくれた。そして、彼も仏教は本当にいいなと思い始めた。そうこうするうちに、村長が、「でもな。この教えに従うことは生半可じゃできない。だれも救われないよ。」という。そして驚いたことに村長が、「私でもイエス・キリストを信じると救われるか」と聞いてきて、村長が回心し、洗礼を受けた。

 

 自ら信じるのは良いが、国のルールで、誰かが伝道すると、寺に通報され、寺は国に通報するので、外国人であれば国外追放、国民であれば逮捕。村長がクリスチャンになっても、村ごと信仰とはならない。それでも、関わる人が信仰に到る。祈り会で誰かが、「アーメン」というと、この宣教師は叱ったそうです。「アーメン」と言わずとも「そうです」でいいのだと。それほど、神経を使う。信者となった者も、実は彼が宣教師であるとはわからない。伝えていない。ただキリストを信じる者として、村の人々に仕え、ゆっくり、福音を語ってきたと。

 

 今は関西の田舎で生活している。ここで、宣教地のことを思いだす。日本人でありながら「この男は、この村の者になれるのか、それともよそ者として生活するのか。」試金石は神社の祭りに参加するかしないか。彼は、分科会にしている人々から非難を浴びるかもしれないのに、あえて、このことを語ります。よそ者であっては、心を開いてくれない。心を開いてくれなければ福音を伝えられない。村の者となるには、祭りへの参加が必須ですと。当然、いろいろな意見があるでしょう。それを私たちがどうジャッジするかではなく、神様です。

 

 質疑の中で、ある宣教師が、脈略なく、唐突に、日本の教会は、人の葬儀を宣教に使ってきたと。本来ならば、亡くなられた方とその家族のためであるのにと。欧米の宣教師は、日本での仏教式の葬儀を嫌い、焼香も、献花も嫌い、葬儀の場に行くなと教えてきた。牧師夫人である自分の母は、宣教師の教えを堅く守って、親族であっても、葬儀を避けてきたと。しかし、欧米では、墓に行き、花をささげるではないかと。しかしこの国では、偶像礼拝の危険が少しでもあるならば、極力避けるように命じてきたと。ある意味ダブルスタンダードではないかと。

 

 この分科会の暗黙のキーワードは「気が狂ってるとは、今までしてきたことを続けながら、違う結果を期待すること」。要は、結果が出ないのに、同じ方法を続けることは、おかしいのではないでしょうかということ。福音を語っても、信じる人がいないならば、今まで通りの方法と変えてみないとなりませんよと。もちろん、結果ではなく、生き方を尊く思う人もいて、是非を言えないかもしれませんが。

 

 世界には17400の民族グループがいます。世界人口80億のうち、未伝民族は総人口の42%33億人。未伝民族とは、自分はクリスチャンと自認する人が5%以下かつ福音派のキリスト教徒が人口の2%以下。日本のクリスチャンは0.3%。ミッションスクールを出たなど、キリスト教に対してどちらかというと好意的な人がいたとしても、この定義によれば、日本は明らかにキリスト教が伝えられていない国です。未伝民族で一番人口が多いのは、バングラデシュのバングラ民族で、日本はなんと2番目です。

 

 ある宣教師は福音を効果的に伝えるためのセッションを行なっていますが、伝道が進まない3つの理由があり、それは無知と未熟と恐れとのこと。人にイエス様のことを伝えなれればならないことを知らない、どういうふうに、何を伝えたらいいかわからない。拒絶されたらどうしようと恐れていると。一方で、今、田舎に福音を伝えるキャラバンが盛んになっているそうです。1000人に伝道すると1人、2人救われる。自分のお店を教会併用にする人も出て来る。これを受けてある方が、「ある意味、福音を信じなかったとしても、愛する家族や友人が福音を拒絶するのと比べたら、痛くも悲しくもないのではないか」と。いや誰が拒まれても悲しいですし、誰が信じても嬉しいです。伝道するということのハードルをさげて、伝道に慣れてしまうと良い。

 

 礼拝は必守。お酒ダメ、たばこダメ、ギャンブルダメ。私たちも、こうしなさい、これはだめという福音の伝えられ方が多かったかもしれません。しかし、律法ではなく、相手を心から愛して、祈って、伝える。神様も私もあなたを愛していることを伝える。

 

 

 パウロは自分の基準を相手に求めず、相手の基準に自分を合わせた。それが、福音を伝えるための大切なカギとなります。パウロはキリストにあって自由を得ていたが、福音のために奴隷となることも、律法を中心に考えるユダヤ人に合わせることも、律法を持たない人にも届くために、そのようになりました。神様であるイエス様が人間となられたように。福音をしっかり伝えるために。そして、主イエスは「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。(ルカ6:31)と教えています。


2023101日 主日礼拝 使徒の働き61-4 「苦情が出た」

 

 毎年10月、私たちの教会では「宣教協力月間」を過ごしています。それにちなんでですが、先月の19日火曜日から22日金曜日まで、岐阜で行われた第7回日本伝道会議に出席してきました。この会議は、聖書を文字通り「誤りのない神のことばと信じる」福音派諸教会の、宣教協力のための会議です。1974年と82年に京都で、91年に塩原で、2000年に沖縄、2009年に札幌、16年に神戸で開催されました。

 

 尾張地方にかけたのか、主題「おわり」から「はじまる」宣教協力、副題は、多様性、デジタル化、本質を考える時代にできること、で行われました。参加した分科会を考えても、いろいろな団体と一緒になって、教えられ、できることが大きくなります。今回は「終わらせること」と「始めること」が意識されていたと思います。

 

 際立ったのは、50歳より上の人は登壇しない。形式的な挨拶はしない。ここは、若い世代の、切実な願いだったか、疲れ切った上の世代の、切実な願いだったのか、一応、上の世代の謙虚さ故にと言われていました。そういう意味では、テンポが良かったと思います。毎回、午前に基調講演があり、午後と夕に3つの分科会を持ちました。

 

 なのに、44歳ながら、世俗の岐阜市長の挨拶があると知ってしっくりこなかった。ただ、岐阜市長のあいさつで、岐阜のことがよくわかりました。織田信長の父信秀はキリシタン大名だったとのこと。また信長の嫡孫、秀信もキリシタン大名であり、岐阜城主。ところが徳川により、今でも岐阜、愛知、三重は日本で一番クリスチャンの少ない県トップ3とのこと。福音の谷間と言われるとのこと。それが400年以上続いているとのこと。柴橋正直市長のお父さんが献身し、8歳の時、岐阜へ。市長本人は、大阪の大学に進学し、就職は大手の銀行。岐阜に戻ることはないと思っていたのに、岐阜に配属。後、銀行員を辞め政治の道に。国会議員を1期して、2018年から岐阜市長を2期。城主ではないが、キリシタン市長として、岐阜の人々に仕えているとのこと。なぜ、市長の挨拶を入れたか、理由がわかりました。これも宣教協力の一つ。感動し、震えました。柴橋市長は、牧師や宣教師ではないが、市長として、神様と人々に仕えている。市長は、小沢政治塾で学びつつも、西松建設事件のとき、30歳ながら、師である小沢一郎に党代表の辞任を求めるほど、正直で、勇気ある人物です。

 

 伝道会議の2日目朝の聖書講解はKGK副総主事の塚本良樹さんでした。聖書箇所は使徒の働き21-21節と黙示録79-10節で、メッセージ題は「聖霊は教会を不快な交わりにする」でした。耳を疑いました。印刷してある文字を疑いました。聖霊は教会に平和や一致をもたらすのではないか。不快ではなく、快適の間違いではないか。

 

 しかし、メッセージを聞き、気づきをいただきました。ここは宣教協力していくために、教会で分かち合いたいことです。塚本主事が話した通りではありませんが、聖書に記されているのは、主イエスが命じられたように、ペンテコステの日に聖霊が降臨し、信者は聖霊に促され、福音を語り、人々はエルサレムに住むユダヤ人も、他国に住むユダヤ人も信仰に導かれた。一緒に生活すると、信仰は同じでも、言語も文化も違う。私たちも、言葉の通じない人とやり取りするよりは、言葉の通じる人とやり取りすることになる。そして、言葉の通じない人は、残念なことにないがしろにされてしまう。聖書を土台として歩む私たちにとって、そうでない方々をどう受け入れ、愛することができるのかという問いでもあります。

 

 言い訳はいくらでもできます。現代で言えば、礼拝でちゃんとアナウンスしましたし、週報にちゃんと書いてありますと。しかし、伝わっていなく、面倒がられて、後回しにされる。61節の事態で、良いのは、ギリシア語を使うユダヤ人が、我慢して、あきらめて、見過ごされてしまうのではなく、ちゃんと苦情が述べられ、それが受けとめられること。

 

 と言っても、使徒たちが祈りと福音の宣教に加えて、毎日の配給をするのではなく、信者の中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選ばれることになります。そしてその人たちにこの務めが任せられることになり、使徒たちは祈りとみことばの奉仕に専念することができるようになります。

 

 神様は素晴らしいお方です。ローマ人への手紙で言えば828節「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」ということです。

 

 パウロが異邦人に伝道をして、多くの回心者が起こされますが、ここでも衝突が生じます。古い契約は律法を行うことによって、義とされるというものでしたが、それでも、律法を完全に行えないというものでした。新しい契約は救い主であるイエス・キリストを信じて義とされるということでした。しかし、人は古い習慣に戻りやすく、エルサレムで会議が行われ、「偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように」ということが確認されました。

 

 私は今まで、神のための良い働きが、ときどき順調に進められないのは、悪魔が攻撃や抵抗し、邪魔していると考えておりました。それもあるでしょう。しかし、新しい世界に移るとき、古い世界を脱ぎ捨てなければならない。主イエスは「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。(マルコ2:22)とおっしゃっていることを忘れてはならない。

 

 

 それでも、私たちは慣れ親しんできた方法、行動からなかなか脱することはできない。ここを抜け出すことが宣教の新しいスタートとなります。箴言14章4節に「牛がいなければ飼葉桶はきれいだが、豊かな収穫は牛の力による。」とあります。牛のいないきれいな飼葉桶が良いのか、飼葉桶が汚れても牛がいることなのか。私たちに覚悟がなければ、私たちの規格にあった人しか、教会に留まれない。私たちの規格は古い皮袋か、新しいものか。苦情によって気づくこともあります。苦情が出ないのが教会なのではなく、正しい対処ができるのが主の教会です。そして宣教協力へとつながります。


2023924日 召天者記念伝道礼拝 ヨハネの福音書43-10 「一杯の水」

 

 本日は召天者記念伝道礼拝です。光の子聖書教会では教会員で召された兄姉と、教会で葬儀に関わった方々で主のもとに戻られた方々を覚えます。生まれたばかりの小さい子もいれば、まだまだ若い人もいますし、いくらご高齢、ご年配と言っても、まだまだ生きていてほしかった皆さんです。

 

 いつも、人が亡くなられるたびに、もっともっといろいろ聞いたり、いろいろ話したかったと思いますし、一緒にあれこれしたかったと思います。しかし、このことに関しては、私たちが永遠に続く神様の国に入れば、いくらでもそうしたことができる希望があります。

 

 さて、勝手な思い込みではなく、聖書に書かれていることを確認します。誰でも亡くなったら天国に行くわけではない。天国に行けるということは、別な言い方をすれば、救われると言います。また、罪が赦されると言います。使徒の働き2章38節で、ペテロは「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と言いました。救われるためには、天国に行くためには、罪を悔い改めて、バプテスマを受けるということになります。その後の生き方として、神様に喜ばれる生き方が目標になりますが、良い行いが、天国に行く条件とはなりません。

 

幼な子の場合は、罪人であっても、悔い改めようがない。ダビデとバテ・シェバの間に生まれた子も、そうです。ダビデは、私も彼のいるところに行くが、彼はここに戻れないと語ります。コリント人への手紙第一714節にも、信者と未信者の間の子が聖であることも記されています。実は信者の配偶者も「聖なるものとされており」、意味は「神に属する者」と別訳があります。

 

もちろん、子も、配偶者も罪の悔い改め、救い主に対する信仰を持ち、バプテスマを受け、そして、キリストとともに歩むことが明確な救いです。ところが、不思議な例もあります。ルカの福音書23章に、主イエスと一緒に十字架にかけられた二人の男のことが書かれています。一人の男は、イエス様をののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と横柄に言ったが、もう一人は、仲間に対して、「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」と言い、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言った。イエス様は「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われた。彼は悔い改めたのか。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」という言葉に、彼の悔い改めがあった。バプテスマは受けていません。しかし、彼には神様への恐れがあり、自分が犯した犯罪に対する刑罰を受けとめつつ、救い主にすがった。つまり信仰があった。

 

同じルカの福音書949-50節に、弟子のヨハネが「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」と言いました。しかし、イエス様は「やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。」とあります。キリストに従わない者は天国に行けないとは言わず、「あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。」例えば、教会に来ていない人が、イエス様のお名前で祈っていたら、「だめだよ。イエス様の名前で祈ったら」というでしょうか。イエス様に祈って、イエス様が答えてくださり、イエス様との関係が段々深められていくと良い。

 

 弟子たちの関心に、94648節、「だれが一番偉いか」ということがありました。「議論が持ち上がった」とあります。イエス様は、一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」と言われた。弟子たちは、誰が一番偉いかと序列を考え、イエス様は素直にご自身との関係を求める人に心を向けられる。その人の実績とか、実力は救いには関係ありません。

 

また、マタイの福音書10章42節では、「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」とある。キリストの弟子とは、クリスチャンのことですが、相手がクリスチャンと知って、水一杯飲ませる者は決して報いを失うことはないとあります。この報いとは何か。明言されていないのですが、その報いはとても大切なものであると受け止めます。

 

 さて、ユダヤ人とサマリヤ人は同じ先祖ヤコブを持ちつつ、ある時から宗教的対立状態にあった。しかし、ユダヤ人である主イエスはサマリヤを通られ、町でははじかれていた女に井戸の水お求める。律法の教師が女性に話しかけることが良しとされない文化であっても話しかけられた。

 

「わたしに水を飲ませてください」と言う主イエス。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」と言う女。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」と主イエス。

 

 

 主イエスとのやり取りを通して、この女は主イエスが、キリスト、救い主であることを知り、自分を厄介者、除外者扱いした町の人々にキリストを伝えます。今、主は父なる神の隣におられ、天で、地上の様子を見て、働いておられますが、ご自身の代わりの者を通して、事を行われます。地上にある水は、飲んでもまた肉体が渇くので、飲み続けなければなりません。それでも生命維持のためには不可欠です。地上の水は心、魂の渇きを潤すことはできません。しかし、主イエスご自身は「その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」とおっしゃる。いただけるなら遠慮なくいただくのが賢明です。主のもとにある兄弟姉妹を思いつつ、天での再会は喜びです。祝福です。驚きです。格別です。先に主のもとにある方々を後から行って、驚かせ、喜ばせ、神様に感謝しつつ、神様の栄光を称えたいです。そのために、今、自分にできることをなすのは幸いです。


2023917日 主日礼拝 創世記501-26 「良いことの計らいとする神」

 

 今日で創世記は最後となります。現代は脈拍、呼吸、血圧、体温など、機械で測ってその人の健康状態を把握します。病気は血液や尿や様々な検査で把握します。ヤコブの場合、そうしたものがありませんでしたが、本人が自分の最後を悟ったのでしょうし、家族を祝福した。もし、父にのろわれたとしたら、悲しみと苦しみを抱え、病む場合もあるかもしれません。しかし、祝福は希望と力をもたらします。

 

 危篤状態があったか記されていないので不明ですが、力を出し切って臨終を迎えます。現代では医師が発する「ご臨終です」は、終わりに臨むということで、ある意味、的確な言葉だと思います。

 

 ヨセフの振る舞いが際立っていますが、一番愛された人物として、また、十数年父と離されていた者として、今や、エジプトの大臣として、一族を支えている存在として、ふさわしい存在なのかもしれません。ここではヨセフに焦点が当てられているため、他の兄弟の様子はわかりませんが、ヨセフと同じく、父の死を悲しんだのでしょう。

 

 ヤコブの葬儀の様子を見ますが、医者は、イスラエルをミイラにします。医者は「癒す」という言葉に、「する者」がついて、癒す者というのが元のことばです。神様も癒す者に含まれます。神様は肉体の傷だけではなく、心の傷も癒します。2326節に、ミイラという言葉が出ていますが、原典では香油、香料、薬品に関する言葉があり、腐敗防止の処置を行います。エンバーミングという言葉を聞いたことのある方もいるかと思います。私は北海道にいるときに、年配の牧師に伺いました。中関東地区の聖会の奉仕があり、すぐに札幌に戻れなく、この処置を行ったとのこと。具体的には動脈に防腐剤を注入する。アメリカでは、現在ご遺体の90%にこの処置を行っているそうですが、きっかけは1861-65年の南北戦争にあったそうです。火葬が禁止されており、故郷に埋葬するための手立てでした。実は阪神淡路大震災でも、火葬が間に合わず、この処置が行われています。ヤコブはその先駆けでした。

 

 当時と現代の方法が同じかどうかわかりませんが、当時は40日を要し、70日間悲しんだとあります。エジプト人にとって、王でもなく、大臣でもなく、大臣の父親の死を泣き悲しむとは、まるでイスラエルを自分の家族のように受け止めています。飢饉は去り、ヨセフの仕事は減っていたかもしれませんし、喪の期間を過ごしましたが、ヨセフは父の遺体をカナンの地に葬りに出かけます。直接ファラオに会わないのは、死を忌み嫌うエジプト人を配慮している。

 

 5節は丁寧に訳されていますが、埋めるという動詞が、埋葬する、葬るとなり、埋めるの名詞形が墓となります。ファラオは親子の誓約が果たされるように、許可を与え、ファラオの家臣、ファラオの家と国のすべての長老たちが追随しますので、荘厳で、まるで国葬のようなものだったと思います。

 

 ヨセフの兄弟の子どもたちは行かなかったものの、エジプトの戦車と騎兵も伴うので、見た者が、「これはエジプトの荘厳な葬儀だ」と言ったのは当然のことと思います。もちろん、このことはイスラエルが求めたものではなく、ファラオの計らいでした。

 

 さて、父の埋葬が無事済みましたが、エサウは父の死の後ヤコブに復讐しようと当初考えたように、兄弟たちの中にある思いは15節、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪に対して、仕返しをするかもしれない」ということでした。父が健在のときは、父がいるから抑制が効く。しかし、父がいなければ、ヨセフの中にあったうっぷん、怒り、復讐心が沸き起こって来るのではないかと心配した。それで、彼らはヨセフに「あなたの父は死ぬ前に命じられました。『ヨセフにこう言いなさい。おまえの兄弟たちは、実に、おまえに悪いことをしたが、兄弟たちの背きと罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、父の神のしもべたちの背きを赦してください。」という。

 

 ヨセフは兄たちに正しく理解されていなかった。復讐するような人間ではない。そして、既に亡くなっている父を持ち出して、言葉を語らせるのは情けない。ヨセフは父のことばとして聞いているのでしょう。父や兄たちに心配させてしまった自分自身の足りなさ故、泣いているように思います。兄たちは、あれほど嫌った行為をここでも行い、ヨセフの前にひれふします。そしていのちを守るために「ご覧ください。私たちはあなたの奴隷です。」と発する。

 

 ヨセフは「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか。」という。この言葉はアブラハムも語っていました。人は人であり、奴隷でも神でもないのに、罪があると人は奴隷になったり、神になろうとしたりします。それはサタンがエバに「神のようになる」という誘惑に、人が負けてしまった結果です。

 

しかし、「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。」それには目的があり、このように、「多くの人が生かされるためだったのです。」

「ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたも、あなたがたの子どもたちも養いましょう。」このように、ヨセフは彼らを安心させ、優しく語りかけた。神様と神様のみことばと神様の視点に立つ者の存在は、私たちを支えます。

 

 「人を恐れると罠にかかる。」「主を恐れることは知識の初め。」いずれも箴言にある言葉です。ローマ人への手紙828節が、神様の姿の一面を表しているとすると、対になるのがこの創世記5020節です。

 

 ヤコブは父イサクや祖父アブラハムより寿命が短ったのですが、ヨセフは兄たちに売られ、エジプトで苦労したためか、更に短くなっています。それでも現代の私たちよりは長生きです。

 

「エフライムの子孫を三代まで見た」とは、具体的なことがわかりづらいですが、出エジプト記205節、申命記59節の例にならうと、父、子、三代、四代と数えるのでエフライム、エフライムの子、エフライムの孫ということです。男だけで言うと12人兄弟で、下かに2番目のヨセフ。他の兄弟たちはみんな元気だったのか。そのことは記されていません。

 

 

 イスラエルの民がエジプトに滞在したのはヨセフで始まりますが、外国の地にイスラエルの民が在留した400+は、出エジプトの際、ヨセフの遺骸携われて終了となります。この後、モーセが誕生するまで、イスラエルの民の誕生や生活に関する記録は聖書にはありません。


2023910日 主日礼拝 創世記491-33 「それぞれにふさわしい祝福」

 

 491節後半から27節はヘブル語本文では詩文の形で記されていますので、日本語聖書も同じ形態をとっています。ただ、日本語にはなかなか変換できませんが、変則的なこともありますが、前半3語で語ると後半も3語、4語で語ると後半4語、2語だと後半2語という形になっていて、言葉遊びもあります。意味が伝わらないと思いますが、ダン ヤディンはダンは裁くで、ヤディンの中にダンのdnがあります。ガード グドッド イグデヌーはガドは襲う者が襲うという意味で、グドッドとイグデヌーにそれぞれgdがあります。

 

 この地上を離れる前に、ヤコブは子どもたちを集め、述べます。形見分けではなく、言葉を語る。それが彼らへの力となり、未来となる。一つ一つを見ると本当にそれは祝福なのかと思えるかもしれない。しかし、受け止め方次第、生き方次第、用い方次第です。また、各部族ごとの祝福ととれるのですが、12部族全体が神の目的のために用いられ、その使命を果たすための祝福でもあります。

 

 ルベンが長子であることは紛れもない事実。わが力、わが活力の初穂。威厳と力強さでまさる者。奔放であることを良しとするか、悪とするか。突破力でもあるが、破壊力ともなる。神様のために、家族のためにそれを用いるかどうか。祝福ではあるが、用い方を間違える混乱を招く。

 

 シメオンとレビは兄弟の中で、気が合い、一緒に、ディナを辱めたシェケムとその町の男たちを殺害した。このことに関して、6節、ヤコブ自身はこの事件に関与せず、潔白であることを宣べています。怒りを抱いたとしても、それに合わせて、人を殺すのは良くないし、牛の足の筋を切ると立てなくなるので、病気になって、失うことになるので、意味がない。ディナの受けた屈辱に対して、牛で償おうとしても償えないとしても、牛が役立たなくなるのであれば愚行でしかない。ヤコブはシメオンとレビ自身を呪われたのではなく、彼らの激しい怒りを呪われた。こうした悪だくみはイスラエルの中では引き裂き、散らすだけのもの。レビは祭司の部族となり、シメオンはカナンの地に入るとき、先頭に立てられたユダ族と力を合わせます。ここも力を持つ者が力をどのように用いるか。復讐のために使うのか、神様に従って用いるのか。

 

 ユダの名の意味は「ほめたたえる」ですが、7節ののろいと対比されています。「ユダ あなたを ほめたたえる あなたの兄弟たちは」ユダ― アッター ユドゥハー アヘハー 敵に勝利し、兄弟たちはユダに仕える。ダビデもユダの子孫で王となり、主イエスもユダの家系から出て、全地の主です。シロは一時期、イスラエルの各分野の中心地でしたので、油注がれ、王となるということを表しています。ユダとヨセフに関することばは各5節で、共に一番長く語られています。獅子は政治的強さで、誰かに支配されない。ぶどうは豊かさの象徴です。

 

ゼブルンは海辺に、船の着く岸辺に住む。その境はシドンにまで至る。ただ、ヨシュア記で分割された土地の地図では海岸には接していません。それで別訳では「その側面はシドンを向く」とあります。

 

「イッサカルは、たくましいろば、二つの鞍袋の間に身を伏せる。」という言い回しは士師記515-16節に出てきます。ろばの背の両側にかけた鞍袋に荷物をいっぱい詰め込んで動けなくなった状態なのか、または、欲しい物をたくさん背に持って満足している。安らぎを求め、かえって奴隷になってしまう。

 

 ダンの子孫で一番有名なのはサムソンだと思いますが、彼は士師としてイスラエルを裁きます。サムソンに限らず、強い人、魅力的な人、能力がある人でも、その才能を与えてくださった神様以上に、自分自身を信頼すると行き詰まります。ヤコブも経験済みでした。それで、「主よ、私はあなたの救いを待ち望む。」と祝福の途中で声をあげます。

 

 士師記に出て来るエフタはマナセの地ギルアデ出身ですが、遊女の子であり、ガド人ではないかと言われます。ヘブル書にも信仰の人として取り扱われていますが、イスラエルに攻め入るものから、イスラエルを救います。

 

 アシェルには豊かな食物が約束され、王にはならないが王に給仕するものとなる。

 

 ナフタリは美しい子鹿を生む。民数記に出て来るモアブの王バラクではなく、士師記に出て来るバラクはナフタリの子孫で、預言者エリヤもナフタリの子孫ではないかと言われます。

 

 ヨセフは「実を結ぶ若枝、泉のほとりの、実を結ぶ若枝。その枝は垣を越える。」と良いことが書かれていますが、敵に激しく攻撃され、苦しむこともありますが、その中で牧者となるものが出てくることを語ります。「おまえを助ける、おまえの父の神によって、おまえを祝福する全能者によって、上よりの天の祝福、下に横たわる大水の祝福、乳房と胎の祝福があるように。」と祝福が宣べられます。ヨセフからヨシュア、ギデオン、サムエルが起こされます。

 

 ベニヤミンの子孫はサウル、エステル、パウロです。語られたことばが少なくても、民族絶滅の危機から民族を救い、異邦人宣教に命がけで従事する者が起こされます。

 

 ヤコブは12人全員に対して、それぞれにふさわしい祝福を与えました。ただし、長いから良いとか、短いから駄目とは言えない。そして、その祝福に希望を持ち励まされるのはいいが、そのことにあぐらをかいて、しっかり歩まないのであれば、エサウやルベンがそうであったように、受けるべき祝福を失うこともある。

 

 ヤコブは祝福を述べた後、自分の死が近いことを語り、亡骸を、エフロンの畑地にある洞穴に、先祖たちとともに葬るように願います。「ヤコブは息子たちに命じ終えると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。」とあるので、力を振り絞ってとも言えますし、語るべきことを語って安心して、自分の民に加えられたとも言えます。

 

 

 父の語る言葉は、兄弟であっても、他の兄弟にはわからないが、自分にはどういう意味なのか、分かったと思われます。神様のことば、聖書が、他の人にはわからなくても、自分には神様の深い愛と力強い励まし、祝福ということが沢山あります。


202393日 主日礼拝 エペソ人への手紙117-23 「教会」

 

いつもはファミリー礼拝と伝道礼拝以外、ほぼ講解説教ですが、今日は、教会についての主題説教をします。午後に「聖書の教える教会形成」をテーマに学び会の2があります。

 

前回担当の先生が学び会1を担当してくださいましたが、先生のライフワークが教会をテーマにした学びです。神学校で2年間かけて教えているとのことです。先生が一番強調されていたのはヘブル人への手紙1023-25節「約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」でした。

 

聖書に見られるテーマは、救いについても、教会についても、キリスト者の生活についても、とても重要かつ、大きなテーマです。1回の礼拝メッセージや1、2回の学び会で、語り尽くすことも、学びつくすこともできず、実践しつつ、歩んでいくことです。

 

どのテーマも、知識として持つだけではなく、知り得たことにそって生きていくことが必要で、あるべき姿について、気づいたり、教えられたら、すぐそこに戻ること、そこを目指すことが大切です。

 

聖書を見るとひとりの人の信仰の変化もあれば、世代ごとの信仰の変化があり、やはり、神様の愛と恵みに生かされ、神様のみことばに教えられ、励まされることが必要です。

 

さて、エペソ人の手紙は「教会」をテーマにして書かれている部分が多い手紙です。117節はすでに主イエスを信じている人々のための祈りとして、「神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」と祈ります。もちろん、大切な祈りです。しかし、もう、神様のことは知っているでしょう。だけど、深く知っていない面もある。317-19節では、「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」と祈る。ここも、私たちはキリストを知っていると思いつつ、知るべきすべてを知っていない。私たちも時々「自分のこと、誰も知らない」と言っているかもしれません。隠していたら、当然わからない。しかし、隠しているわけでもなく、わかってもらいたい。だから、自分のことを語る必要があるし、私たちも神様や人々を知る必要があります。

 

 私たちは三位一体の神様は知っているが、案外、御霊のことを知らない。御霊のことを知らないがゆえに、知恵と啓示を受けられないことがあるかもしれない。ドラマのセリフで「おまえの目は節穴か。この節穴め」とありますが、私たちも心の目がはっきり見えないこともあり、「神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、」知ることができまないでいる場合がある。

 

 神様の力を知ると知らぬとでは大違いです。神様の力を知らないから不遜な態度を取り、恐れず、頼らない。神様の力を知ると頼るし、失望しない。

 

 父なる神様はこの力をもって、キリストをよみがえらせ、ご自分の右に置かれ、21節は、すべての管理部門の頂点にイエス様を置かれるので、イエス様こそ、真の支配者であるわけですが、私たちはつまり教会は頭であるキリストの身体であり、キリストに仕えるものです。

 

 「教会はすべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」とは、神様がご自分の願われていることが実現するところです。教会外でも、神様が願われていることが現実になりますが、教会外は、神様に逆らっているので、いやいや不本意ながらということもあるでしょう。しかし、教会では、神様の願いがなることが喜ばれ、なされていく。そこはすべて神様に造られたものが集められ、とても良くなされる。罪のなかったエデンの園のようです。教会にはなくていいものも、ない方が良いものもなく、すべてみ旨にかなう大切な存在なのです。そうすることができるのも神様の力の故です。

 

 教会外では、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところではないというものではありません。しかし、まずはキリストを主とするものの間で、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところであることが深められ、教会を通して、全世界において、世界は、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところであることを知るのです。

 

 私たちは教会堂を指して教会という。しかし、聖書では、建物をいうのではなく、キリストを救い主として信じた人々の群れを言います。イエス様を信じる人一人でもキリストの身体ですが、イエス様が「 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」とおっしゃっており、通常、教会は信者二人以上と定義されます。

 

 教会の姿は聖書に記されています。私たちがみことばから離れて、教会を語ると混乱します。そして、自分も教会の一員であることを忘れて、教会には愛がないとか、教会は祈りが足りない、伝道の熱意が足りないと批判することはお門違いです。合わせて、他の教会とか、団体と言うことも。それはみな主の教会だからです。そして、この教会も他の教会も主に与えられた賜物を用いて、主から与えられた使命に生きているからです。

 

 

 パウロがテモテに語ったことですが、ここにも教会の姿があると教えられたことは年配の男の人を叱るのではなく、父親に対するように。年配の女の人には母親に対するように、若い人には兄弟のように、姉妹のように。つまり自分の家族のように、いや、主にある家族として。全員が主と隣人を愛し、自分の賜物を用いるなら、みことばに教えられていくところに、主に喜ばれる教会が形作られていきます。最後に、教会といえば神様で、神様といえば愛ですが、愛といえばなんですか。神様は罪を犯す前の人間を愛しておられたが、罪を犯した後の人間も愛しておられる。いろいろなことをもって愛を表すことができます。自己犠牲とか。しかし、罪ある人間に対する神の最初の愛は赦しでした。教会も愛の実践は何があろうと赦しです。


2023827日 ファミリー礼拝 創世記151-6節、17121節、181-15

 「神様の約束」

 

 聖書には、いろいろなことが書かれていますが、どんなことが書かれていますか。簡単にまとめると、過去の出来事、人間の現状、将来の姿が書かれています。神様が天と地を造られたというのは過去のこと。すべての人間は罪人であるというのは現在のこと。イエス様を信じれば罪を赦していただける。イエス様は私たちを迎えに天から来てくださるというのは将来のことです。

 

 皆さんは人と約束しますか。先週、教会に電話がありました。「明日の午後2時半に、お会いできませんか。」「いいですよ。」でも約束したのに、私が教会にいなくてもも困ります。こちらで待っているのに、相手が来なくても困ります。約束はお互いに守ることが大切です。

 

 ところが、その場しのぎで、最初から果たすつもりがない約束もあるかもしれません。もうしません。守るつもりでも、うっかり、忘れてしまうこともあるかもしれません。

 

 約束は、自分との約束も含めて、人とだけするのではないと思います。神様の約束があります。聖書を見ると、約束がいっぱいあります。創世記216-17節「神である主は人に命じられた。」とあるので、命令でもありますが、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」は約束も警告も含まれます。善悪の知識の木から食べない限り、あなたは死にませんということですし、善悪の知識の木以外からはどの木からでも、思いのまま食べてい良いですと保証しています。これはアダムに語られたことですが、アダムは人間を代表しています。

 

 地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのを神様がご覧になり、洪水で人々を滅ぼされたのち、「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。」と約束されました。これは洪水の後の全人類に対する神様の約束です。

 

 神様はアブラムに、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。と約束してくださり、アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。これはアブラムに限ったことではありますが、聖書を読んで、神様の語り掛けを受けとめる人々もいます。

 

 あなたは、神様の約束を何か知っていますか。あなたは、神様の約束を信じ、神様に従っていますか。アブラムは神様に従っていましたが、約束がすぐに現実したとは言えないこともあった。確かに、神様はアブラムを祝福し、財産は増え、しもべもたくさん持った。しかし、自分の子どもはまだいなかった。後継ぎは、ダマスコのエリエゼルでしょうかと思っていた。

 

 神様はアブラムに、「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」「あなたの子孫は、このようになる。」とおっしゃった。アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

 

 振り返れば、75歳で主に会ったアブラム。カナンの地に住んで10年後、サライが自分の女奴隷をハガルをアブラムに与え、86歳の時、イシュマエルが生まれた。アブラムが99歳の時、主がアブラムに現れ、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」と言われ、アブラムはひれ伏した。そして神様はアブラムに、新しい名アブラハムを与えてくださいました。この名前には「多くの国民の父」という意味があり、神様はそうすると約束されました。「わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。」天地の造り主で、愛に富み、全能の神様があなたの神となると言ってくださるのは素晴らしい約束です。この時は、あなたも、あなたの子孫も、代々にわたって割礼を受けることが求められました。

 

 アブハムはどう思ったでしょうか。自分の子孫がたくさん増えても、いつまでも自分は生きていませんよ。それよりここにいるイシュマエルがどうなるのか。神様はイシュマエルのにもアブラムの願いに従って祝されることを約束されたが、神様は夫婦であるアブラムとサライを通して、祝福することを宣べ、生まれてくる子の名をイサクとするように命じ、神様はイサクと約束し、イサクの後の子孫のために永遠の約束とされました。命令と約束が組み合わせになることがあります。

 

今もユダヤ人は割礼をしますし、ユダヤ教徒になる人は割礼を行います。しかし、問題は、割礼を受けても、心から神様を大切にしないことです。新約聖書では、新しい約束として、神の御子イエス・キリストを自分の救い主として信じれば、罪が赦され、神の子とされ、永遠のいのちをいただきます。これも神様の約束です。実は約束って目には見えないものです。

 

ヘブル11:1 さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

マタイ6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

使徒16:31 ・・・「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

 

 私は神様との約束を守っていますし、人との約束も大切にしています。人間には限界がありますが、約束を守ろうとしている。神様は、約束を忘れたり、その場しのぎで約束されることはない。私たちの救いのために、主イエス・キリストを十字架にかけられるほど、ご熱心です。それは愛から発しています。だから、私たちは神様を信じて良いし、ゆだねても良いわけです。安心できるわけです。

 

 

お金持ちにお仕えしている人が、小切手をもらった。でも、たくさんのお金に変えられるのを知らなかったので、額に飾っておいただけだった。聖書にたくさんの神様の約束があるのに、知らないまま、受け取ることができなかったら、もったいないです。一番大切なのは、イエス様を自分の救い主として信じて、永遠のいのちをいただくことです。そして神様の約束を聖書からいっぱい見つけてください。


2023813日 主日礼拝 創世記4727-4822 「祝福」

 

 27節のイスラエルはヤコブ個人とヤコブの家族全体を言っています。29節や31節はヤコブ個人ですが、私たち読み手も、頭を柔軟にしていなければなりません。27節後半の彼らには、ヤコブが入るのか入らないのか。というのも、含むのであれば、130歳を超えても子を持つことになり、それ自体は驚きではありませんが、家族のリストにも変更か、解説が必要となります。しかし、飢饉であろうが、子どもはたくさん生まれ、家族が増えた。

 

 ヤコブはおじラバンの所で20年苦労することがありましたが、最晩年は、エジプトに移るも、ヨセフを含む全家族で過ごせたのは幸いでした。寿命に限って言うなら、祖父アブラハムと父イサクの年月には至らないが、共に住むひとまとまりの家族としては一番多い。

 

 29節、イスラエルは自身の体力の衰えか、死ぬ日が近づいたことをわきまえ、ヨセフを呼び寄せます。みんなはヤコブとともにゴシェンにいるのに、どうしてみんなを呼び集めないのか。ただ、エジプトにいる限り、大臣のヨセフに願ったらいいと考えたのでしょう。

 

願う内容は「もしおまえの心にかなうなら、おまえの手を私のももの下に入れ、私に愛と真実を尽くしてくれ。私をエジプトの地には葬らないでほしい。私が先祖とともに眠りについたら、エジプトから運び出して、先祖の墓に葬ってくれ。」というもの。自分の死んだ後のことなので、形式的な同意もあるかもしれません。果たされないこともあるでしょう。だから、「もしおまえの心にかなうなら」と言い、嫌なら、別の息子に頼むことにしたでしょう。「手を相手のももの下に入れ」ることは、誓いであり、創世記24章でイサクの嫁探しの折、最年長のしもべがアブラハムのももの下に手を入れて誓ったことがありました。そうすることは相手に対して、愛と真実を尽くすことですから、その気もないのに、こうしたことをするとしたら裏切り行為となりますが、ヨセフは「必ずあなたの言われたとおりにいたします。」と誓い、確かに5012節に、実施されたことが記されています。

 

31節でイスラエルが枕もとでひれ伏したのは、感謝であり、その誓いが果たされるように神に願っています。ついに、ヤコブもヨセフにひれ伏すととる者もいます。旧約聖書の死後観ですが、人は土から取られて土に返るということを経験的に会得しています。そして、先祖代々の墓ではないが、神様への信仰をもって歩んだアブラハムが葬られたところに集められる。もっとも、アブラハムの前にサラがヘブロンのマムレに葬られ、イサクもリベカもマムレに葬られています。ただ、ヤコブの最愛の妻ラケルは旅の途中に亡くなり、家族の墓に葬れなかったことはヤコブの悲しみとなっています。

 

罪がなければ、人が死ぬことはなかった。イエス様は、亡くなった身体は土に葬られても、霊は神様のもとに行くし、イエス様の再臨後、亡くなった者たちはの霊は新しい身体を着ることになることを教えています。ヤコブは自分の亡き後の希望・願いを、明確にヨセフに伝えることができて良かったと思います。本人が語ってくれなければ、子であっても、なかなか聞けることではないと思います。次、48章に入り、ヤコブの病気が何であるかは書いていませんが、寝ていることが多くなっていたのでしょう。ヨセフ、マナセとエフライムが見舞いに行く。ヤコブは力を振り絞って床の上に座ります。

 

 そうしてヤコブが語ったことは、「全能の神はカナンの地ルズ(のちのベテル)で私に現れ、私を祝福して、仰せられた。『見よ、わたしはあなたに多くの子を与える。あなたを増やし、あなたを多くの民の群れとし、この地をあなたの後の子孫に永遠の所有地として与える。』」ということ。全能の神様が現れてくださり、祝福してくださり、約束してくださったことは本当の祝福です。

 

 ヤコブはヨセフに替えて、マナセとエフライムを子とします。これで、ヨセフが他の兄弟より、2倍の嗣業を得たことになります。それは長子の権利を得たことになります。

 

 この時のヤコブはイサクのように、老齢のために目がかすんでいて、見ることができなかったとありますが、ヨセフの子どもたちに気づき、「彼らを祝福しよう」と言います。ヤコブはマナセとエフライムに口づけして抱き寄せます。「おまえの顔が見られるとは思わなかったのに、今こうして神は、おまえの子孫も私に見させてくださった。」と言います。

 

 ヨセフはエフライムをイスラエルの左手側に、マナセをイスラエルの右手側に引き寄せた。ところがイスラエルは、右手を伸ばして弟であるエフライムの頭に置き、左手をマナセの頭に置いた。ヤコブはヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ。すべてのわざわいから私を贖われた御使いが、この子どもたちを祝福してくださいますように。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちに受け継がれますように。また、彼らが地のただ中で豊かに増えますように。」群れを注意深く見守られる羊飼いとしての神はここに始まります。贖いは奴隷として売られたものを買い戻す、最も近い縁者の行為です。神様が私たちに最も近い縁者は納得できます。

 

ヨセフは、父が右手をエフライムの頭に置いたのを見て、それは間違っていると思い、父の手を取って、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。しかし、ヤコブは拒んで「分かっている。わが子よ。私には分かっている。彼もまた、一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし、弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるほどになるであろう。」と言いました。

 

誰かが家を継として、最初に生まれたものとすることが代々続いてきたかと思います。その方が準備も覚悟もできると思います。だれが一番ふさわしいかであれば、吟味するのに時間がかかり、途中で変更することもあるかもしれません。ヨセフは下から2番目、ダビデは末っ子ということもありました。しかし、いずれも神様が決めておられる通りになります。

 

ヤコブはその日、彼らを祝福して言った。「おまえたちによって、(原文ではおまえによって)イスラエルは祝福のことばを述べる。『神がおまえをエフライムやマナセのようになさるように』と。」こうして彼はエフライムをマナセの先にした。弟が兄の先となり、甥たちが伯父たちと同じ所領を受け、更に北イスラエルはエフライムという名で表されるようになります。イスラエルはヨセフに言った。「私は間もなく死ぬだろう。しかし、神はおまえたちとともにおられ、おまえたちを先祖の地に帰してくださる。私は、兄弟たちではなくおまえに、私が剣と弓でアモリ人の手から取った、あのシェケムを与えよう。」私たちにとっては、イエス・キリストによる救いが祝福ですし、神の家族も祝福です。もちろん信仰も、上から与えられる信仰と力と平安も。

 

 

 この神様の祝福をしっかり受け止め、神様に応答できれば幸いです。


202386日 主日礼拝 創世記4713-26 「生き延びる」

 

 病気や検査で食事ができないということもあるかもしれませんが、食欲があるのに、家に食べるものがないとしたら、食べ物を買って来なければなりません。その食べ物を買うお金がないということもあるかもしれません。そして、お金があって、お店に行っても、お店に商品がない。台風による水害や、大雪による雪害、あるいは地震で、道路が寸断され、工場が倒壊して、商品が届かないということもあるでしょう。

 

 ロシアのウクライナ侵攻は、間もなく1年半で、実際に食料難、価格の高騰を感じている人々も世界には多いと思います。古い話になりますが、日本でも、江戸時代の265年間に全国的な飢饉が35回あったとのこと。7.5年に1回の勘定になります。江戸の3大飢饉と言うのがあって、享保171732年、天明371783-87年、天保4-101833-1839年に起き、子孫代々に語り継がれたとのこと。享保では250万人が飢餓に苦しみ12000人死亡。天明は岩木山や浅間山の噴火が成層圏に達し冷害となり、推定2万人死亡。天保では125万人の人口が減少しました。そうした飢饉が現在では語り継がれなくなったのは、どうしてでしょうか。

 

 日本で戦中、戦後の食糧難でご苦労された方々の話を何度か聞くことはありましたが、今はほとんど聞かない。「食糧難でかぼちゃばかり食べさせられたのでかぼちゃは嫌い」というやや笑いを込めた話もあり、語る方も聴く方もお互い暗い気分になるので、切実な話しは少ないと思います。精々、食べ物を粗末にしてはいけないよというものでしょう。

 

 エジプトとカナンの飢饉の記事を読みつつも、現代の私たちには、7年間も続く飢饉は、なかなか想像できないです。その事実を否定しないが、どうしても、現在は食料の保管もなされていて、何とかなると思っているが、食糧自給率が低く、食料貯蓄はどうなのかわかりません。1993年米騒動、すなわち平成の米騒動というのがありました。これは30年前です。日本はタイからお米を輸入しましたが、タイの人が食べるお米はどうなったか多くの日本人は理解していない。お金を持つ者が貧しい者の食料をあさるとどうなるか。

 

 1993年の不作の原因は、日本の夏が例年より2-3℃気温が低かったため。それは2年前のフィリピンのピナツボ火山の影響と言われるます。私たちはたった23度でとか、2年前の噴火が影響するとは信じがたいし、理解できないでいる。

 

 創世記4713節、「飢饉が非常に激しかったので、全地で食物がなくなり、エジプトの地もカナンの地も飢饉によって衰え果てた。」人々は銀を払って穀物を得た。この銀は、それまでに食料が余った時に売って銀を得ていたのでしょう。当時も物々交換はあったでしょうが、ヨセフが売られたときのように、銀を用いるやり取りもあった。

 

 銀より先に穀物が尽きれば、価格は高騰し、銀もすぐ尽きたでしょうから、銀が尽きても、穀物がまだあるということは、まだましです。しかし、手持ちの銀がなければ穀物を買えなくなるので問題は残ります。そして、食べなければ死んでしまう。

 

 誰でも生きるか死ぬかという所に立たされれば、大臣のところに行き、交渉もする。「私たちに食物を下さい。銀が尽きたからといって、どうして私たちがあなた様の前で死んでよいでしょうか。」ヨセフは銀の代わりに家畜を求めます。人によってはヨセフは悪戯だ、あくどいと非難するかもしれません。困っている人から奪うようだと。しかし、17節、「人々がヨセフのところに家畜を引いて来たので、ヨセフは、馬、羊の群れ、牛の群れ、ろばと引き替えに、彼らに食物を与えた。こうして彼はその年、すべての家畜と引き替えに、彼らに食物を分け与えた。」とあります。その年は家畜を売って民は生き延びた。もし、家畜を食べていたら、飢饉の後の耕作など、それも深刻な課題となったと思います。その次の年は自分自身と土地を売るしかない。食べ物がなきゃ生きていけないのは当然。19節「どうか種を下さい。そうすれば私たちは生き延び、死なずにすみます。土地も荒れないでしょう。」とありますが、456節では、「耕すことも刈り入れることもないからです。」とありました。ここは、通常の耕作と収穫と理解し、それでも幾分種をまき、収穫を得、多少の足しにしたということです。収穫の20%はファラオに納めるわけですから、厳しいものと思われます。しかし、他の地域での税率が40%60%ということもあり、民に配慮されているとのことです。

 

 今まで、ファラオは王でありながらも、土地のすべてを所有していたのではなく、この飢饉を機に、広大な領土を持つことに。民は、畑、草原から、町に集められることに。それまで民は自由民だったのに、ファラオの奴隷となる。一方で、ファラオに仕える祭司たちは、ファラオから給与があり、それで穀物を得られたので、土地は手放さず、身を売ることもなしに済んだ。

 

 私たちの人生では、平穏な毎日を願いつつ、ある意味、何が起こるかわからないし、想定できない。そして、生きていくのに、仕事を奪われたら、健康がむしばまれたら、希望も力も失うこともある。別な仕事を探すこともできるでしょうが、自暴自棄になったり、究極は自死もありうる。

 

 エジプトの民はファラオの奴隷となっても、生きることを選んだ。なぜならば、この飢饉で苦しんだが死者は出ていなかった。しかも、生きるための食料は蓄えられていたから。そして、ヨセフは自分の家族だけではなく、エジプトの人々のためにも働いていたから。この大変な状況で、ヤコブとヤコブの家族は生ける神を見ています。また、神様は、ファラオもエジプトの民も、ご自身を知ることを願っておられます。

 

 

 江戸時代「百姓は生かさず殺さず」と言われた。これは為政者のために、苦しみつつも、年貢を納める農民をうまく使う手法でした。現代でも同じかもしれません。生きることとは食うことであり、働くことであると言う人もいます。しかし、為政者もたくましく生きる人も肝心な神のことを心に据えていない。エジプトを出たイスラエルの民が40年荒野で過ごした理由「それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」神様は、私たちにご自身を知らせるが、同時に、私たちが神様とどういう関係を持つかにも関心を持っておられます。なぜならば神様は私たちとの愛の交わりの回復を求めておられるから。


2023723日 伝道礼拝 コリント人への手紙第一118-25 「知恵か、悟りか、信仰か」

 

 私がクリスチャン、牧師と知って、「お家はキリスト教なのですか」と聞かれたことが何度もありました。つまり、家がキリスト教だと、クリスチャンになるのはおかしくないが、お家がキリスト教でないのであれば、どうしてクリスチャンに、牧師になるのと不思議がります。私が「家はキリスト教ではありません」と言えば、「あらどうして」とまでは聞いてきませんが、驚きと、理解しがたい反応をされます。あまり真理とか、救いとか、唯一まことの神様とか、一般の人には興味のない話題なのでしょう。しかし、生きていく上で、土台、根本となるものは大切です。それは、人生の意味とか、物事の価値観という言い方でもできると思います。

 

 もちろん、生きている間のことしか考えない人を刹那的と言い、死後を考えている人を浮世離れしていると、お互い相手を軽蔑しています。それはそれぞれが置かれている国の教育や文化も大きく影響しています。日本は「寄らば大樹の陰」、「出る杭は打たれる」という志向が中心で、みんなと同じく、波風立てずというもの。

 

 しかし、みんなと同じでいることは、時と場合、国によっては自主性、主体性を疑われる。それでも、自主性が強すぎれば、尊重されるのではなく、対立が生じるので、自分を貫くか、あきらめるか、選択が迫られます。

 

 日本人は、協調性があり、柔和で、寛容なところが、素晴らしい特質ですが、それゆえに、様々なハラスメント、低賃金、外圧に耐えているとしたら、それは一体、何のためなのでしょうか。生き延びていくためなのか。時々、確認が必要となります。

 

 日本人は民主的で、自由のある国に住んでいると思いながら、実はそれほど民主的でもなく、自由でもない、ということを知らないだけだとすると、残念なことです。童話「裸の王様」は有名ですが、私たちは自分たが裸であることを知らない「裸の国民」なのだとしたら、悲しいことです。

 

 キリスト教の日本布教の中に、内情視察を目的としたものがどれほどあったか。また、各国間の覇権争いがどれほどであったか、詳細を知りませんし、そうしたことで、禁教になったのであれば、宣教師はいったい何をしていたのかということになりますし、布教ではなく、不幸をもたらしたことになります。

 

 パウロはユダヤ人の心も、ユダヤ教の実情も、諸国の人々の関心も理解して、「 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。」という。決して、しるしや知恵が悪いものではない。しかし、十字架にかけられて死んだイエスのことを語ると、イエス様が神の一人子であることも、神の愛も、犠牲も、よみがえりも、救いも、吹っ飛んでしまう。十字架の死は、神様の愛のしるしであり、十字架の死は神の知恵であった。それにもかかわらず、もう受け入れよう、聞こうとはしない。

 

 犯罪人や死刑囚のことばは、誰も聞かない。だけど、イエスが「あなたはキリストか」と問われ、そうだと言っただけで、十字架にかけられることに。主イエスの処刑を許したピラトも、ユダヤ人のねたみが動機となっていたことは知っていたが、押し戻すことはできなかった。しかし、こうなることが神の計画であり、知恵でした。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です」。大切なことは、あなたにとって、イエス・キリストの十字架のはなしは、どちらか。愚かなことか、神の力か。

 

 十字架を否定する者は愚かであるというのではなく、十字架の話題はくだらない、と思う者には、滅びの現実に変化をもたらさない。しかし、十字架の話を聞く者には、救いに到らせる、神様のみわざの働く機会となる。

 

 19節の「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」とは、イザヤ書2914節の引用で、口では神を敬いつつ、心が伴っていないこと、神様を敬うのは、自ら神様を知ってではなく、ただ人間の命令によってなしている。だから神様は、知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去ると言われます。実は、聖書では、知恵も悟りも神様が与えてくださる大切なものです。しかし、これが神様ではなく、人間の知恵や悟りであれば、人を救うことはできません。もし、人間が神様を抜きにして、人の知恵を誇るなら、「神は、この世の知恵を愚かなものにされる」。人間の知恵では、救い、神様との幸いな関係を持つことはできない。

 

 21節、神様は、人間が、「自分の知恵によって神を知る」ことはないようにされた。だから、聖書に基づかないで、神はいるとか、いないとか、それは意味のないことです。「宣教のことばの愚かさ」とは、十字架にかけられた神の御子イエス・キリストの死とよみがえりですが、これも、人間の側から見ると意味のないことですが、神様はこのことを通して、信じる者を救う。

 

「十字架につけられたキリスト」は、ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、パウロは、そして、教会はこのことを語ります。今時。この科学の時代であっても。

 

24節の「召された者たち」とは、キリストを信じた者です。「ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」とは当然ですが、もともと、神様はすべての人が救われることを願っていますし、イエス様は「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。(ヨハネ10:9)とおっしゃっていますし、「だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。」(Ⅰヨハ 4:15)と聖書にあります。

 

26節に、知者は多くないと言いつつ、25節、その中の知者が、どんなに自分の知恵を豪語しても、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」のです。ですから、神と対立するのではなく、神の愛と計画、親切を喜んで受けることはその人に幸せと喜びをもたらします。

 

 

では、キリストを信じている人々は、愚かなのでしょうか。知恵も、悟りも、理性もないのでしょうか。いいえ。そんなことはない。ただ、自分の弱さを認め、罪を認め、救いや日々の導きに関して、神様に心を向け、頼る者は幸いです。知恵か、悟りか、信仰かというメッセージ題。どれも大切ですが、救いに関しては、聖書に書かれているとおり、救い主イエス・キリストを信じるしかないのです。


2023716日 主日礼拝 創世記4631-4712 「最も良い地に」

 

 「エジプト」というと、皆さんは何を思い浮かべますか。古代文明、ピラミッドとスフィンクス、ラクダ、ナイル川などでしょうか。砂漠や川だけではなく、穀倉地帯や家畜の牧草もあります。創世記の次の出エジプト記から、40歳までファラオの娘の子として生活したモーセや頑ななファラオを思い浮かべる方もいると思います。

 

 ゴシェンで父とその一族と再会したヨセフは、ファラオに、家族が到着したことを報告することを、兄たちと父と家の者たちみんなに伝えます。

 

 4520節で、ファラオがイスラエルの家族に言づけしたのは「家財に未練を残してはならない。」でしたが、私たち日本人が思い浮かべる家財は家具とか、ソファーとかでしょうか。ヘブル語で財産を表す単語がいくつかあり、一つは持ち運べる動産(ラクーシュ)2つ目は、らくだ(ミックネー)3つ目は土地、所有物(ナッフラー)などのもの。では、ここで言う家財は動産か、らくだになるのですが、実際は「あなたがたのすべて」ということです。

 

 迎える側のファラオとしては、こちらにすべてあるから、何も持ってこなくても心配いらないよというものでしょう。しかし、移動する身としては、運べるものはすべて運びましょうとなる。家畜を連れての移動は大変だと思いますが、連れてきてしまいました。それは家畜を家族の一員と捉えることもあるでしょうし、生き物を飢饉の土地に残して、餓死させたくない思い、寄留する先でなにもかも丸抱えでお世話になるわけにはいかないという思いもあったと思います。

 

 ヨセフの予想は、ファラオはヨセフの家族に会ってみたいでしょうということ。また、家族もファラオに表敬訪問できればいいというもの。32-34節で、この人たちは羊飼いです、とヨセフが解説を加えているのに、おまえたちの職業は何かと聞くのは変な感じがします。しかし、実際の対話では、事前に情報を得ていても、ファラオの方から、直接、問うことはあるでしょう。

 

 文化によっては牛を神としたり、豚を不浄とすることがあります。エジプトでは、神官が羊や魚を触ったり、死者へ捧げたりしなかったとのこと。それで、一般の国民はそれぞれであっても、ファラオは避けるのはわかります。また、定住生活者は、遊牧民を見下げる傾向があった。

 

 人が暮らすには水は不可欠で、住居の近くに、川や井戸が必要となります。あるいは、運びうる範囲になります。もちろん、家畜も、水が不可欠。家畜の数にもよりますが、水と牧草がなければ家畜は飼えません。ゴシェンの地は、羊を飼うヤコブ一族には最適な地でありました。

 

46章後半は、ファラオに会う前の準備で、47章前半は、実際にファラオとの面会ですが、ファラオに面会したのは5名でした。あまり大勢で押しかけても迷惑と考えたのか、誰が行ったのか明記されていませんが、レアから生まれた4人と、弟のベニヤミンであるとすると、ヤコブの妻の子どもたちということで、妥当かと思います。

 

 1節では、「私の父と兄弟たち、また、その羊の群れ、牛の群れ、そして、彼らの所有するものすべてが、カナンの地から参りました。今、ゴシェンの地におります。」というファラオへの報告、それを受けて、2節以降は後日のことだったと思われます。3節、ファラオは、ヨセフの兄弟たちに、「おまえたちの職業は何か。」と、ヨセフの想定通り、尋ねています。兄弟たちは「しもべどもは羊を飼う者で、私どもも、私どもの先祖もそうでございます。」と答えます。ずっとこの仕事に携わってきたことを語ります。政治的に関わる目論見がないことも表しています。

 

 ヤコブ一族の思いは、「私たちはこの地に寄留しようとして参りました。カナンの地は飢饉が激しくて、しもべどもの羊のための牧草がございません。どうか、しもべどもをゴシェンの地に住まわせてください。」です。

 

 ファラオは独断せず、その思いを大臣であるヨセフに伝えます。「おまえの父と兄弟たちが、おまえのところに来た。エジプトの地はおまえの前にある。最も良い地に、おまえの父と兄弟たちを住まわせなさい。彼らをゴシェンの地に住まわせるがよい。彼らの中に有能な者たちがいるのが分かったなら、その者たちを私の家畜の係長としなさい。」と語ります。ということで、ゴシェンの地には、ファラオの家畜を飼うエジプト人もいたと思われます。そして、有能なものはファラオの家畜を飼う係長に抜擢しますということでした。

 

 ヨセフは父ヤコブをファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオを祝福した。ファラオはヤコブに「あなたの生きてきた年月は、どれほどになりますか。」つまり「お年はおいくつですか」と問う。ヤコブは「私がたどってきた年月は百三十年です。私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません。」という。確かに、アブラハムは175歳、イサクは180歳まで生きています。しかし、エジプト人はヤコブより短命であったようです。7節のほかに10節にも、「ヤコブはファラオを祝福し」とあります。2度も神様の祝福を祈った。脚注では、挨拶の意味であったとります。中東のあいさつの典型は「神の平安でありますように」ということです。そこには健康も仕事も生活の一切の祝福を含みます。神様のアブラハムへの約束の中に「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」とありますが、ヤコブがファラオを祝福することも、約束の成就であります。

 

 11節「ヨセフは、ファラオが命じたとおりに、父と兄弟たちの住まいを定め、彼らにエジプトの地で最も良い地、ラメセスの地に所有地を与えた。」とありますが、ゴシェンは地域の名前で、ラメセスは都市の名前ですので、変更されたわけではありません。カナンの地が良いのか、エジプトのゴシェンが良いのか。それは神様と家族がいて、仕事も食物もあるところが最も良い地ということ。ヨセフが、「父と兄弟たちとその一族全員を、扶養すべき者の数に応じて、食物を与えて養った。」とは、ヨセフの存命中というよりは、この飢饉のときを語っていますが、ヨセフがエジプトの大臣であるということは、飢饉の後も、様々な配慮があったと思います。

 

 

 私たちは住む場所も、家族構成も、仕事も様々ですが、また、国々の王や大臣が私たちの家族ということでもありませんが、私たちの霊の父がすべての国々の上におられる主権者で、兄であるイエス様が右の座におり、とりなしていてくださるので、暑くても、物価上昇があっても、神様に御頼りして生きていけるという幸いに置かれています。


202379日 主日礼拝 創世記461-30 「このわたしが、あなたとともに」

 

 子ども向け聖書クイズに、人類で最初に「ハ」を入れた人と「イ」をとった人はと言うのがあります。答えはアブラハムとサラですが、私たちは音から、「入歯」と「胃の摘出手術」と思うのですが、日本語でしか成り立たないクイズです。アブラハムの場合は新しい名前が定着していますが、ヤコブの場合は、文脈から大抵わかりますが、国名を表すこともあり、人名としてのイスラエルは若干使いづらさがあります。

 

 食前の祈りはよく聞きますが、楽しい食事を過ごした後の、食後の祈りもあります。食前の祈りを忘れたらどうするか、感謝しないで食べられないので、食中の祈りもありです。前回、ヨセフは兄弟たちに「神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」と言い、生き延びるために、エジプトに下って来なさいという。父イスラエルは「十分だ。息子のヨセフがまだ生きているとは。私は死ぬ前に彼に会いに行こう。」と言う。何が十分なのか。細かい説明は要らないということ、どうするか、熟考する必要はないということか。創世記をずっと見てきて、教えられていることは、神様の導き、神様への応答、神様への祈りです。

 

 一見、イスラエルは、22年ぶりのヨセフに会いたく、浮足立っている様相です。息子たちの報告、ヨセフが生きていて、エジプトの大臣をしているというのは間違いないものでしょう。しかし、ヨセフが「神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」とそのまま受け取っていいのか。神様に、確認しなくていいのか。イスラエルは、自分の家族全員と出発してしまいました。それまで居住していたヘブロンから、ベエル・シェバまで、約50キロ、旅程では、既に1日経過していました。

 

 祈り心を持って出発したのかもしれません。しかし、ベエル・シェバで、神様にいけにえを捧げ、礼拝した。ベエル・シェバはアブラハムが井戸を掘りあてたところで、アビメレクと契約した場所です。イサクもこのベエル・シェバで、アビメレクと契約をします。イスラエルは、すでにエジプトに向けて出発しているのですが、旅の守りを求めつつ、「私はヨセフが大臣を務め、穀物のあるエジプトに楽しい気分で向かおうとしております。しかし、もし、そのことがあなたのみ旨に反するのであれば、今すぐ引き返します。どうぞ、みこころをお示しください」と祈っているのでしょう。

 

 故に、2節、神様は、夜の幻の中でイスラエルに「ヤコブよ、ヤコブよ」と語りかけられた。もしイスラエルが、エジプトに行くことしか考えず、前のめりになっていただけならば、長く続く奴隷生活は、子孫たちが、先祖イスラエルを呪う根拠となる。創世記15章で、神様がアブラハムに語られた言葉「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。そして、四代目の者たちがここに帰って来る。」は、アブラハムの胸の中にしかなかったのか、イサクにも、ヤコブにも、ヤコブの子どもたちにも語り告げられているのか、聖書はそのことを明確には語りませんが、もし語られていないのであれば、四百年とか、四代目の者たちという記述はアブラハムにはあまり意味をなさないのではないか、と思われます。

 

 8節から27節までは、ヤコブ一族の数です。すでにエジプトにいるヨセフたちも含めて総勢70名。一家70名は大きいと思いますが、エジプトの総人口から考えると、ないに等しい。しかし、単にあと5年、生き伸ばすためにエジプトに遣わされたのではない。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」という。

 

 「大いなる国民」は神様がアブラムに言われた122節と同じです。申命記265節では「強くて数の多い、大いなる国民になりました」と告白するようになります。ここでは女性を入れず70人が、400年の滞在で60万人になっているので、8571倍です。江戸時代初期の日本の人口は、1200万人~2200万人と聞きます。150年後の江戸中期で3000万となります。食料や環境にも影響しますが、150年で、1.5倍ないし2.5倍。33乗しても30倍に満たないのですが、産めよ増えよと言われた主の民は、すごく増えました。ある研究では、ストレスのない社会では人口は増えなく、生命や民族の危機に会うと人口が増加するとのこと。エジプトにいたイスラエルの民はストレスが多かったのかもしれません。少子高齢化の日本がストレスフリーと言うわけではありませんが、戦争がないという意味では生命や民族滅亡の危機ではありません。

 

 イスラエルの一族は、レアの息子6人とその子どもたちで33人。ここにディナは含まれず、レアのはしためジルパの子2人とこの子どもたちは16人。ラケルの子2人とこの子どもたちは14人、ラケルのはしためビルハの子2人とこの子どもたちは7名で、70名。66人と言うときは、ヨセフとマナセとエフライムとヤコブ自身を除いた数となります。ディナのほかに、アシェルにはセラフという娘もいますが、70人には含まれません。アシェルの子ベリアには二人の子がいたので、ヤコブにはすでに曾孫もいたということになります。

 

 28節、ヤコブはユダを先にヨセフのところに遣わして、ゴシェンへの道を教えてもらった。そうして彼らは、ゴシェンの地にやって来た。ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、首にすがって泣き続けた。感動の再会です。イスラエルはヨセフに会って、「もう今、私は死んでもよい。おまえがまだ生きていて、そのおまえの顔を見たのだから。」と言いましたが、4528節のことばの繰り返しとなります。イスラエルの偽らない心境でした。この時130歳のイスラエルはあと17年エジプトの地で生きます。

 

 ヨセフと兄弟たちとエジプト人が食事をしたとき、分かれて座ったように、エジプト人は外国人を蔑視していたとのこと。また、羊を飼う者が忌み嫌われていたこと。これらがイスラエル一家をひとつの民族としての絆を強め、エジプトとの結婚することなく、宗教的にもエジプトの偶像に毒されることなく、エジプトを出国するまでの400年間、守られたと言われます。

 

 

 私たちは、キリストを信じる者と信じない者に、それ以外の違いはないことを示そうと努めます。しかし、キリストを信じる者と信じない者に、それ以外の違いが生じていることも示さなければならない、いや、隠してはならない。その一番大きな違いは、神様がわたしたちと、いつもともにいてくださるということです。そして、この神様は400年たとうと約束を忘れることなく、守られます。


202372日 主日礼拝 創世記451-28 「私をここに遣わしたのは、神なのです。」

 

 ヨセフがエジプトの大臣となってからの話、特に、飢饉になってからの兄たちとヨセフのやり取りは、クライマックスとは言え、相当長いです。しかし、結論を急げば長く感じられるのですが、私たちの人生も、結論が出ないこと、決断ができないことがいっぱいです。それをじっと忍耐をもって待ってくれる人、わかってくれる人が必要です。それが親であったり、配偶者であったりしますが、神様こそ、よくわかって待ってくださるお方です。もちろん、それがみこころであれば、後回しにせず、速やかに取り組むことも大切ですが、すべてに神様の時があります。

 

 大人は子どもより、怒る、泣くことについて、感情をコントロールするのが上手です。しかし、大人であっても、状況や事柄によっては感情をコントロールできなくなる。42章では、ルベンが兄弟たちに語っていることを聞き、離れたところでヨセフは泣いた。43章ではベニヤミンとの再会で、急いで奥の部屋に行って泣いた。今回は、ユダの気迫のこもった言葉で、こみあげてきて、自分がヨセフであることを明かし、声をあげて泣いた。ユダの変わり様に、ヨセフの感情も溢れ出た。別に、大人が泣いて悪いことではありません。

 

 ヨセフにとって一番気になっていることは年老いた父のことであり、「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」と通訳なしで聞いた。今まで、お前たちは回し者だとか、弟を連れて来いとか、どうして私の杯を盗んだのだと詰問していたのが、ヨセフだったと知って、兄たちは驚きのあまり、父の様子さえ答えることができなかった。

 

 それまでは一定の物理的距離が兄弟たちとヨセフの間にはあった。しかし、正体を明かししたので、「どうか私に近寄ってください。」という。ヨセフであることをさらに確実に示すために、今まで語られていなかった事実、「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。」と言う。しかし、「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」と冷静に言う。

 

 私たちは神様の計画の中で歩んでいますが、今の状況も、神様の導きとして受け止めているか。それは学校も仕事も家族もすべて。あるいは、もしかして、こうではなかったと思うのか。これは運命ではなく、神様の計画の中にある。運命であれば人の意志は無視されますが、自分勝手に生きていいというのではありませんが、神様の計画であれば、人間の意志が現わされ、罪があっても、ことが成就します。

 

 ヤコブも兄たちも、飢饉があとどれぐらい続くか不明です。しかし、ヨセフは「まだあと五年は、耕すことも刈り入れることもない」と伝えます。7節「神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。」と語る。神様は素晴らしいお方です。ヨセフはポティファルに仕え、投獄されるも、「ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者と」するために、神様はヨセフをエジプトに遣わされた。これもすごいことです。

 

 初めから、「お兄さんたち、飢饉は7年続きますから、父上と一緒に、どうぞ、こちらにお移りください」でも、良かったかもしれない。しかし、そうすれば、自分たちがヨセフを奴隷として売ったことが良かったという結論にしか至らない。そうではなく、神様が関わってくださっていることをはっきり覚える必要がありました。でなければ、ヨセフは苦しみに遭い、その仕返しもできた。ヨセフが仕返ししないのは、すべてが神様から出ているということを知っているからです。

 

 ヨセフからの、父への伝言は「息子のヨセフがこう言いました。『神は私をエジプト全土の主とされました。ためらうことなく私のところに下って来てください。・・・飢饉はあと五年続きますから、父上も家族も、また父上に属するすべてのものも、困ることのないように、私が父上をそこで養いましょう』」です。13節では「急いで父上をここに連れて来てください。」です。抱いて泣くことは再会だけではなく、悔い改めと赦し、そして回復を表しています。口づけは愛情です。

 

 16節、このニュースがファラオにも伝えられると、喜んだだけではなく、ファラオもヨセフの家族をエジプトの地に招きます。それはヨセフの貢献度も表しています。善は急げではありませんが、「すぐカナンの地へ行き、あなたがたの父と家族を連れて、私のもとへ来なさい。私はあなたがたに、エジプトの地の最良のものを与えよう。あなたがたは、地の最も良い物を食べるがよい。」と言います。さらに、「子どもたちと妻たちのために、エジプトの地から車を持って行き、あなたがたの父を乗せて来なさい。家財に未練を残してはならない。エジプト全土の最良の物は、あなたがたのものだから」と。私たちは家財に未練を残すことが多い。パウロは「 私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。(Ⅰテモ 6:7)と教えますが、私たちは得たものをなかなか手放せない。そうすると餓死してしまう。

 

 兄たちはろばの背中に荷物を負わせていましたが、車を得、車を引くことで荷物を運べるようになり、多くのものを以前に増して容易に運べるようになりました。兄たちは各1着ずつ晴れ着を与えられ、ベニヤミンは食事と同じく5倍の晴れ着5着。そして一方的贈り物としての銀が300枚。奴隷として売られたときのヨセフが銀20枚でした。ヤコブに贈られたものは盛大でした。

 

 

 ヨセフは「道中、言い争いをしないでください。」と言いますが、そうした心配事があったのでしょう。大きな山は越えたものの、人間として、整えられなければならない点は誰もが持つ課題です。カナンに戻った彼らの第一声は「ただいま」ではなく、「ヨセフはまだ生きています。」ということと「しかも、エジプト全土を支配しているのはヨセフです。」ということ。しかし、22年間消息不明のヨセフについて聞かされて、ヤコブが茫然とするのは当然、彼らのことばが信じられなかったのは当たり前です。私たちは神様を信じています。しかし、神様は私たちがなかなか信じられないことをする。天地創造も、御子を十字架にかけられ、死からよみがえらせることも、一般の人にはなかなか信じられないことです。息子たちは、ヨセフが話したことを残らずヤコブに語りました。ヤコブはそれを信じた。そして、130歳のヤコブは元気づいた。そして、ヤコブはヨセフに会うために、カナンを去ってエジプトに行くことを決めました。かつては「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい。」と言ったヤコブ。しかし、今は「私は死ぬ前に彼に会いに行こう」と言って、エジプトに下ります。年齢は私たちの行動に関して、考慮される点です。年甲斐もなくとか、いい年してとか。それは人間の常識ですが、神とともに歩む者に、若すぎるとか、老いすぎているとかはないようです。神様のお考え、神様のお働きとともに歩めれば幸いです。


2023618日 主日礼拝 創世記441-34 「このしもべを、あの子の代わりに」

 

 ヨセフと兄弟たちが食事をしたのは昼食でした。そして、彼らは酒も飲み、酔い心地になりましたが、ヨセフは冷静に、「あの者たちの袋を、彼らが運べるかぎりの食糧で満たし、一人ひとりの銀を彼らの袋の口に入れておけ。それから、私の杯、あの銀の杯は、一番年下の者の袋の口に、穀物の代金と一緒に入れておけ。」と家を管理する者に命じました。家族として「彼らが運べるかぎりの食糧で満たし」と言うのはわかります。また、お代は要らないよというのも理解できます。しかし、「私の杯、あの銀の杯は、一番年下の者の袋の口に、穀物の代金と一緒に入れておけ。」というのはどういうことか、明らかに魂胆があります。

 

 一寝して、明け方、一行はろばとともに送り出された。ヨセフの家を管理する者が追って来て、ヨセフの指示通り、「なぜ、おまえたちは悪をもって善に報いるのか。これは、私の主君が、飲んだり占いをしたりするときに、いつも使っておられるものではないか。おまえたちのしたことは悪辣だ」と彼らに言いました。家の管理者もヨセフの意図を知らなかったと思います。主人は悪辣ではないはず。そして、カナンの一行を心よりもてなしたはず。杯で占いをしていることもなかったはず。しかし、主人の指示に従います。

 

 兄弟たちは自分たちが大臣の杯を持ち去ることはないことを弁明する。そうは言いつつも、「しもべどものうちで、それが見つかった者は殺してください。そして、私たちもまた、ご主人の奴隷になります。」と言う。ヘブル語ではしもべも奴隷も同じ言葉、エベッドです。

 

 家の管理人は冷静で、「今度も、おまえたちの言うことはもっともだが、それが見つかった者は私の奴隷とし、ほかの者は無罪としよう。」と言い、年の順に杯を探します。ルベンから始めて、11人中10人まで、ないので、ほぼほぼ大丈夫と思ったか、いやもしかして、ベニヤミンのところにあるのかと思ったか。「その杯はベニヤミンの袋から見つかった。彼らは自分の衣を引き裂いた。」陥った状況に恐れを覚えながら、エジプトに戻ります。

 

 14節、兄弟たちはまたまたヨセフの前で顔を伏せます。立場の上の人に対する挨拶である以上、しないわけにはいかない。ヨセフは彼らに言った。「おまえたちの、このしわざは何だ。私のような者は占いをするということを知らなかったのか。」ヨセフのような立場の人が、占いで異教の神の意向を伺うことはあるでしょうが、ヨセフがそうしていたかどうか。むしろ、密室に入って祈ることはあっても、言葉通りの占いはしないでしょう。

 

この状況でユダの心に思い浮かぶのは、「神がしもべどもの咎を暴かれたのです。」ということ。そして、そうであれば、杯が見つかったベニヤミン、わたしたちも、あなた様の奴隷となります。」という。しかし、兄弟たちに咎があるとしても、大臣の正体を知らぬまま、大臣の奴隷になる意義が不明です。

 

ヨセフは言った。「そんなことをするなど、とんでもないことだ。その手に杯が見つかった者、その者が私の奴隷となるのだ。おまえたちは安心して父のもとへ帰るがよい。」という。ヨセフは、一行の帰りを待つ父や兄弟たちの家族のことをも気にかけている。

 

ユダは言います。「あなた様は、以前しもべどもに、おまえたちに父や弟がいるかとお尋ねになりました。」そのことが自分たちには不可解だったと言いたいのでしょう。しかし、「私たちは、『私たちには、年老いた父と、年寄り子の末の弟がおります。彼の兄は死に、その母の子としては彼だけが残されましたので、父は彼を愛しています』と申し上げました。」とあり、ベニヤミンの兄は20年会っていないので、死んでいる可能性もあるでしょうが、死んだのではなく、殺そうと思ったのも事実。奴隷として、イシュマエル人に売ったというのが真実です。ここを隠しているから、ヨセフは前回、あなたがたは回し者だと言ったわけです。

 

別に、ベニヤミンだけに会いたかったのではない。兄弟たちや父を恨んでいるのでもなく、困らせようとしているのでもなく、ヨセフの夢とヨセフが父に溺愛されていることが売ってしまう原因であったとしても、問題だけがあって、解決されていません。意地悪したいのではなく、真の問題解決を図りたかった。ヨセフが欲したことと言うより、神様が望まれたことです。ベニヤミンがヤコブから離されたら、ヤコブが死んでしまうということですが、問題を抱えたまま生きても、全く幸せではない。むしろ、問題を解決した方が、苦しみが伴っても幸せである。

 

27節にはヤコブのことばが記されています。「おまえたちもよく知っているように、私の妻は二人の子を産んだ。」これはショッキングな言葉です。妻はラケルだけなのか。ラバンにだまされたとしても、レアも妻ではないのか。ビルハやジルパはラケルとレアの女奴隷で、子どもの数競争に巻き込まれた人たちですが、それでも、その子どもたちはわが子なのではないのか。アブラハムはハガルとイシュマエルを遠ざけ、後妻のケトラの子どもたちも東の国に遠ざけましたが、これも最善の問題解決ではありませんが、間近で実の父に軽くあしらわれるという苦しみを味わわなくて済んだ。そして、ヤコブのこの感覚の鈍さが、いや、罪が、子どもたちを苦しめ、最愛の妻から生まれたヨセフとベニヤミンをも苦しめた。

 

ユダは、父がベニヤミンのことで苦しむことがないように、いや、死んでしまうことがないように「どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。」という。ユダのことばはある意味、私たち人間の死の代わりに、私が十字架にかかりますというイエス様の姿勢に通じます。むろん、ユダは十字架で死んだわけではなく、ベニヤミンにも死が迫っていたわけではありませんが。私たちが罪の奴隷で、死の支配に置かれ続けることがないよう、イエス様が十字架にかかって死なれ、罪と死に対して勝利を取られたのです。

 

 

 「あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。」神様が造られた最高傑作の人間。罪が入り、改修が必要となった。イエス様の血潮で、生まれ変わる。人間が罪を持ったまま滅びてしまっては、どうして、天に喜びが沸き起こるでしょう。イエス様を救い主として信じ、神様に心を向け、人々が神様に聞き従うことを喜ぶがゆえに、神様に栄光が帰されるのです。 聖書には「代わり」という言葉が80回出てきます。死んだアベルの代わりにセツが与えられ、捧げようとしたイサクの代わりに薮にひっかかった雄羊が与えられ、王が亡くなり次の王が代わりに立つ。その中で一番大きいのは、神の御子が、私たち罪人のために代わりに十字架にかかって死なれたこと。アブラハムは神への従順のためにイサクを屠ろうとしたが、父なる神は私たちの救いのために御子を差し出してくださった。父も御子も人間への愛に富んでおられます。


2023611日 主日礼拝 創世記431-34 「神の定めに生きる」

 

 ヨセフは兄たちと合流するため家を出たが隊商に連れられてエジプトに下り、兄たちはシメオンを救出するために家を出て隊商の道をエジプトに下る。兄たちはヨセフを売って銀を得、兄たちは袋にあった銀の故に奴隷にされるのではないかとおびえる。創世記はこうした並行記事がいくつもあります。それは語るにも、聞くにも、記憶に留まるにも助けとなります。さて、43章になっても7年間の飢饉が続きます。むしろ、さらに激しくなります。1節の「飢饉」の脚注には、創世記12章、アブラムの時の飢饉、26章イサクの時の飢饉も記されています。いずれもエジプトに下りますが、アブラムもイサクも、妻を妹と偽りました。ヤコブは、ヨセフがいたので、偽る必要性もありませんでした。しかし、自分の別の面が表に現れます。

 

 エジプトへの買い出しで穀物を得ても、飢饉が解消しなければ、また、買い出しに行かなければならない。穀物を食べ尽くし、ヤコブは2節「また行って、われわれのために食糧を少し買って来てくれ。」という。少しというのは、そんなそんな飢饉も長くは続かないという予想か、費用も安くはないという思いか。しかしユダは、「あの方(ハーイーシュthe man)は私たちを厳しく戒めて、『おまえたちの弟と一緒でなければ、私の顔を見てはならない』と言いました。もし弟を私たちと一緒に行かせてくださるなら、私たちは下って行って、お父さんのために食糧を買って来ましょう。しかし、もし彼を行かせてくださらないなら、私たちは下って行きません。あの方は私たちに、『おまえたちの弟と一緒でなければ、私の顔を見てはならない』と言ったのですから。」という。

 

 ヤコブにも、末息子のベニヤミンが一緒であることがエジプトの大臣の求めであることはわかっていた。「少し」ならば、その求めに応じなくてもいいというものか。しかし、直接大臣に会っている者としては、穀物を得るには量の多少にかかわらず、ベニヤミンは絶対に同行しなければならない。6節、ヤコブは「なぜ、おまえたちは、自分たちにもう一人の弟がいるとその方に言って、私を苦しめるようなことをしたのか。」それは「あの方(ハーイーシュ)が私たちや家族のことについて、『おまえたちの父はまだ生きているのか。おまえたちには弟がいるのか』としきりに尋ねるので、問われるままに言ってしまったのです。『おまえたちの弟を連れて来い』と言われるとは、どうして私たちに分かったでしょうか。」と言う。

 

 ユダは父に「あの子を私と一緒に行かせてください。私たちは行きます。そうすれば私たちは、お父さんも私たちの子どもたちも、生き延びて、死なずにすむでしょう。私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います。もしも、お父さんのもとに連れ帰らず、あなたの前にあの子を立たせなかったら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。もし私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は、行って帰れたはずです。」ユダは誰かを犠牲にするのではなく、自分が責任を負います。

 

 ヤコブたちの住んでいるところからエジプトの入り口まで、直線で250キロ。1日40キロ進んでも片道ほぼ1週間かかります。往復で半月。どれほどの食料を購入するかわかりませんが。日本人一人当たりのコメ消費量、昨年は50.7キロとのこと。小麦は3年前で31.7キロ。お米と小麦合わせて80キロ。昭和37年ではお米118キロ。ヤコブたちの生きた時代も、同様の消費だと、家族は子どもも含め70人で、5トン10トン前後必要でしょうし、家畜のための餌も必要になります。だから、決してのんびりしてられない。

 

 ヤコブとイスラエルは同一人物ですが、決心がつきます。「それなら、こうしなさい。この地の名産を袋に入れ、それを贈り物として、その方のところへ下って行きなさい。乳香と蜜を少々、樹膠と没薬、ピスタチオとアーモンド、(いずれも名産品)また二倍の銀を持って行きなさい。おまえたちの袋の口に返されていた銀も、持って行って返しなさい。おそらく、あれは間違いだったのだろう。そして、弟を連れて、さあ、その方のところへ出かけて行きなさい。全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も、息子を失うときには失うのだ。」と言う。

 

 神様のことを思うと、「私も、息子を失うときには失うのだ。」と覚悟を持ちます。どうして、はじめから、神様のことを思わないのか。ベニヤミンに執着していると全員のいのちも失われかねません。ヤコブのこの台詞はエステル記4章16節の「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」に共通します。

 

 15節「そこで、一行は贈り物を携え、二倍の銀を持ち、ベニヤミンを伴って出発した。そして、エジプトへ下り、ヨセフの前に立った。ヨセフは、ベニヤミンが彼らと一緒にいるのを見るや、彼の家を管理する者に言った。「この人たちを家に連れて行き、家畜を屠って料理しなさい。この人たちは私と昼食をともにするから。」18節 「一同はヨセフの家に連れて行かれたので、怖くなって言った。『われわれが連れて来られたのは、この前のとき、われわれの袋に戻されていた、あの銀のせいだ。われわれを陥れて襲い、奴隷としてろばとともに捕らえるためだ。』」と考えてしまった。しかし、戻されていた銀については問題はありませんでした。

 

 ヨセフの家で、ヨセフの帰りを待っていた兄弟たちはヨセフが帰ると「贈り物を彼に差し出し、地に伏して彼を拝した。」あれほど嫌がっていた行為をまたも、抵抗なく行っています。ヨセフは兄たちの安否を問い、父の様子を尋ねる。するとまた、彼らはひざまずいて彼を拝した。そして弟との再会。「わが子よ、神がおまえを恵まれるように。」と祝福するも、ヨセフは弟なつかしさに、胸が熱くなって泣きたくなり、急いで奥の部屋に入って、そこで泣いた。やがて、彼は顔を洗って出て来た。そして自分を制して、「食事を出せ」と命じた。

 

 

32節「それで、ヨセフにはヨセフ用に、彼らには彼ら用に、ヨセフとともに食事をするエジプト人にはその人たち用に、それぞれ別々に食事が出された。エジプト人は、ヘブル人とはともに食事ができなかったからである。それは、エジプト人が忌み嫌うことであった。」このことは理解できますが、兄弟たちが年の順に席につかされたのには驚きでした。しかし、夢を説き明かすヨセフだからではなく、実の兄弟のヨセフだから、ルベンから年の順に席につかせることができた。34節、ベニヤミンの食べ物は他より5倍多かったのは、きっちりではなく、見た目5倍とのこと。出されのは事実として、完食したかは語っていません。ヨセフの家でヨセフと一緒に食事ができたということは、ヨセフの疑いは晴れ、信頼を得たことを意味します。しかし、ヨセフと兄たちが別れた座ったのは、まだ和解が実現していないからです。


202364日 主日礼拝 創世記421-38 「概念と実感の苦しみ」

 エジプトだけではなく、周辺諸国でも飢饉があったため、カナンの地に住むヤコブ一族も、生きていくために、食料を得なければなりません。ヤコブはエジプトに穀物があることを知り、息子たちを買い出しに遣わします。ただし、買い出しに行ったのはヨセフの弟ベニヤミンを除く10人です。「忘れ形見」という思いがヤコブにあったかどうかは不明ですが、ラケルとヨセフを失ったヤコブには最後のベニヤミンとなります。また10人にとっては過去を思い出させるものとなります。

 

 エジプトで、穀物を管理していたヨセフは、「顔を地に付けて彼を伏し拝」む兄たちを目にします。この光景の夢は37章で見ており、このことを話したがゆえに、売られてしまったわけですが、兄たちは自分たちが嫌った夢と同じこと、ヨセフに伏し拝むということを行っています。不思議にも、相手が弟だとできなく、相手がエジプトの大臣だと強いられなくてもしてしまう。

 

 ヨセフはなぜ、兄弟たちを見て、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで「おまえたちはどこから来たのか。」と問うたのか。「お兄さんたち。お久しぶりです。私は神様によって、先に来ておりました」と言えると良かったのかもしれない。しかし、兄たちが過去に悪事を働いたのは事実で、その罪の反省とか、悔い改めならば、ある意味、安っぽくなってしまう。救い、赦しを受けるに値しないと知ることが、救い主の業、恵みに心より感謝することとなる。神様は、私たちを愛しておられる。愛しているから、飢饉のない世界に置くのではなく、飢饉の中にも、信頼できる神様を身近に感じるためにいろいろな状況設定をされる。

 

 9節「かつて彼らについて見た夢を思い出して、ヨセフは言った。『おまえたちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。』」これは、人間的な意地悪、復讐なのか。あるいは兄たちの人間性を磨くためなのか。それは書かれていないのですが、神様の求めているところにたどり着かなければならないからでしょう。兄たちは「いいえ、ご主人様。しもべどもは食糧を買いに参りました。私たちはみな、一人の人の子です。私たちは正直者です。しもべどもは回し者などではございません。」という。ヨセフは兄たちに「僕を売らないで」とは言えなかった。本音を言わせてもらえない、聞いてもらえない、信じてもらえないという苦しみがある。兄たちは10人そろって嫌疑をかけられますが、ヨセフはたった一人でした。よく、ヨセフと主イエスの共通するところが引用されますが、イエス様もたった一人で地上に遣わされ、貧しい家庭に育てられ、罪がないのに十字架につけられる。ヨセフは獄屋から大臣ですが、イエス様は死を味わわれ、復活して、神の右の座に着かれます。

 

 15節、「おまえたちの末の弟がここに来ないかぎり、おまえたちは決してここから出ることはできない。おまえたちのうちの一人を送って、弟を連れて来い。それまで、おまえたちを監禁する。おまえたちに誠実さがあるかどうか、おまえたちの言ったことを試すためだ。」それはできないことは思っても、言われた通りにしなければならない。ヨセフは当てもなく、監獄に何年も置かれました。兄たちは誰か一人がカナンに戻って、ベニヤミンを連れて来るだけでいい。しかし、父がそれを許す保証は限りなく薄く、兄弟を長く監獄に留めるのもつらいことです。

 

 ヨセフが「次のようにして、生き延びよ。私も神を恐れる者だから。もし、おまえたちが正直者なら、おまえたちの兄弟の一人を監獄に監禁したままにせよ。自分たちは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。そして、末の弟を私のところに連れて来るがよい。そうすれば、おまえたちのことばが本当だということが分かり、おまえたちが死ぬことはない。」と譲歩案を示しますが、ベニヤミンが来る可能性は低い。試練です。

 

 どうしてこんなことになってしまうのか。21節「彼らは互いに言った。『まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ。』」ルベンは真相を知っていなかった。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのに、おまえたちは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けているのだ。」と言っても、今更遅すぎです。

 

 ヨセフはこのやり取りを聞いています。過去のことも、現在の兄たちのやり取りも泣かずにはおれない。シメオンが人質になります。ヤコブの娘ディナが襲われたときに復讐した者の一人はシメオンでした。よく言えば勇敢ですが、悪く言えば喧嘩っ早く、暴力的です。その分、人質の向いていたのかもしれません。カナンに戻る途中、穀物代として支払った銀が自分の袋に戻っており、彼らは動転し、身を震わせて、互いに言った。「神は私たちにいったい何をなさったのだろう。」35節にも、カナン到着後、兄弟全員に銀の包みが戻されていることに、恐れます。また、カナンに戻った彼らは父に起こったことを報告します。回し者、つまりスパイだと思われたこと。ついつい末の弟が父といることを話してしまったこと。36節、「おまえたちは、すでに私に子を失わせた」と言いますが、遣わせていたのはヤコブ自身です。そして、息子の一人を偏って愛するということも改善できていません。

 

ルベンは父に「もし私がこの弟をあなたのもとに連れ帰らなかったら、私の二人の子を殺してもかまいません。彼を私に任せてください。この私が彼をあなたのもとに連れ戻します。」と言いますが、ヤコブは「この子は、おまえたちと一緒には行かせない。この子の兄は死んで、この子だけが残っているのだから。道中で、もし彼にわざわいが降りかかれば、おまえたちは、この白髪頭の私を、悲しみながらよみに下らせることになるのだ。」という。このことは、現時点ではヨセフに約束を果たせなくなり、10人の兄弟が誠実でもなく、正直者でもなくなってしまう。

 

 

概念的苦しみ、それは自分では体験してなくても、戦争は苦しい、いじめは苦しい、失恋は、失業は、苦しいと、わかる。しかし、ヨセフは兄たちにからかわれ、嫌われ、売られた。これは概念ではなく、実体験。そして、ヨセフに対して、謝罪し、悔い改められるのは、自分も同じ状況に置かれてから。お前たちは回し者だと言われ、投獄され、支払ったはずの銀が戻されていて、父がベニヤミンをエジプトに連れていくことを許さないとき、自ら苦しんで、苦しむ者のことがわかる。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」(ヘブル 4:15)喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。(ロマ 12:15)とあってもそうした経験がないと、それは概念的なままです。だれもが苦しんだり、悲しんだりしないならば、戦争はなくならない。マタイ5章で、イエス様は8つの祝福を語ります。その中に悲しむ者、義のために迫害されている者も含みます。彼らは慰められ、天の御国を手にする。上っ面の概念ではなく、実感できるものをつかむ。兄たちは「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ。」というが、神様は本当の家族、本当の幸せをこの苦しみを通してヤコブとその子どもたち一人一人に与えようとされています。


2023528日ペンテコステファミリー礼拝 使徒の働き21-422-24

「聖霊によって主の復活の証人となる」

 

 今日はペンテコステファミリー礼拝です。イエス様の時代や、その前の時代は、神様が天地を6日間で造られ、七日目にお休みになったので、土曜日が、安息日と言って、神様を礼拝していました。また、イスラエルの民がエジプトから抜け出すきっかけとなった過ぎ越しの祭りとか、仮庵の祭りとか、プリムの祭りとか毎年祝われていました。イエス様の時代と今と意味は違いますが日にちが共通している祭りは、7週の祭りとも、5旬節とも言われるこのペンテコステです。過ぎ越しの祭りから50日後の日曜日がペンテコステでした。

 

 ユダヤ人はお祭りが好きなのか。当時はお祭りぐらいしか楽しみがなかったのか。それよりも、神様に命じられたものでもありました。過ぎ越しの祭りでは大麦が神様に捧げられ、ペンテコステでは小麦が捧げられました。モーセを通してイスラエルに律法が与えられた時期と重なりますし、ルツがボアズと結婚に導かれた期間ではないかとも言われます。そしてユダヤ人と異邦人の結びつきを象徴する祭りとも言われます。イエス様が十字架にかけられた過ぎ越しの祭りの日には、神の小羊イエス・キリストが私たちの贖いとなられました。

 

 さて、イエス様は、死んでよみがえられて、40日、弟子たちの間で過ごされた。ペンテコステの10日前、天に戻られました。聖霊が来られることはヨハネの福音書にも記されています。14章から16章までじっくり読むと良いのですが、抜粋して読むと、1416-18節「 …わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。…この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。」とあり、1426節「 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」とあり、167節「…わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」とあり、イエス様は前もって語られていました。そしてイエス様は天に上る前、使徒の18節で、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」とお話しになりました。

 

 さて、「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」

 

 ふつう、言葉は、その言葉が使われている環境に置かれるか、努力が必要ですが、その言葉を勉強もせず、その言葉が話されているところにいたわけでもないのに、イエス様の弟子たちが他国のことばで話すのは、その言葉を知っている人にも驚きでしょう。呆気にとられたとあります。話している本人も驚いたでしょう。

 

 どんなことを話していたかというと11節、「神の大きなみわざ」です。みんな訳が知りたくて、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。ペテロは14節以降「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られたことです。『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。』」と旧約聖書を引用しつつ、語りました。それはペテロが準備したのではなく、聖霊のみわざです。

 

22節以降「イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。」、32節「このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」、36節以降「 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」、40節「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。」

 

 聖霊は38節でペテロが言うように「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」とあり、聖霊は神様からの贈り物です。実は、救いに罪の悔い改めと救い主イエス様に対する信仰が不可欠なように、信仰生活には聖霊は不可欠です。つまり私たちのために必要です。

 

そして、使徒18節に「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」とあります。イエス・キリストを自分の救い主として信じている人は大勢いる。だけど、イエス・キリストを自分の救い主としてまだ信じていいない人も大勢いる。つまり、聖霊はイエス様を知らない人のためにも私たちのうちに住まれる。聖霊を自分のうちに宿す者は、自分のためだけではなく、イエス・キリスト復活の証人として、神様のために、人々のために生きることができる。神様が私たちに求めていることが何であるか受け止めることができ、それを行うことができるのが聖霊を賜物としていただいたものです。

 

 


2023514日 主日礼拝 創世記4146-57「飢饉への備え」

 

 どんな物も事柄も、始まりがないと今存在しません。そして、千歳烏山光の子聖書教会も始まりがあって今があります。開拓の思いが与えられ、今までの歩みが守られて、神様に感謝します。

 創世記37章で、エジプトに売られたヨセフは17歳。そのヨセフはエジプトで13年過ごし、30歳になり、ファラオの次の地位に就きます。そして、エジプト全土を巡ります。夢の解き明かしのように七年間の豊作が続きます。ただし、ここで言う豊作とはどの程度のものか、詳しくはわかりません。日本の農林水産省では、作況指数というのがあり、平年収穫量の±1%を平年並み、±2-5%でやや良、やや不良、±6%以上で良、不良となります。日本の10aの田んぼで、地域や品種にもよるでしょうが、529キロが平年の収穫量とするならば、±10.6キロでやや良、やや不良となり、±31.8キロで良、不良ということになります。

 

 しかし、ヨセフの提言は、豊作の7年で、収穫の5分の1を徴収しますから、平年の25%以上ないと、民が文句をいう可能性もありました。また、飢饉が意味することは何なのか。日照りで全く収穫がないのであれば、豊作は平年の2.5倍は必要となります。しかし、飢饉が平年の6割の収穫量として、豊作のときに蓄えたものを加えて、平年の8割を確保できるならば、痩せはしますし、7年間絶えることになりますが、餓死してしまうことはありません。

 

 日本国内の田んぼや麦畑の近くには、農協か何かの貯蔵施設がありますが、当時の貯蔵施設はどういったものか、とにかくそれぞれの町に食料を蓄えた。49節には「海の砂のように非常に多く蓄え、初めは量っていたのに、量りきれなくなって、量るのをやめたとあります。豊作の7年は備えの7年でしたが、ヨセフはオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを通して、二人の子マナセとエフライムを得ます。ポティ・フェラは、ポティファルの完全な形の名前ですが、太陽神である「レーが与えたもの」の意味で、よくある名前で、侍従長とは別人。オンは太陽神レーの祭儀の中心都市で、カイロの北東10キロ。祭司はエリート中のエリートとのこと。ヨセフはエジプト名が与えられ、祭司の娘と結婚し、後に実の兄弟たちがヨセフとはわからぬほど、エジプト語を修得し、エジプト文化を自分のものにします。外面はそうであっても、神様を恐れる心は揺るがない。

 

 創世記2931節から3024節までに、ベニヤミン以外のヤコブの11人の息子と1人の娘の名前が出てきます。その名前は、聖書の後ろに地図、例えば地図4を見ると、割り当てられた土地とほぼ一緒です。ただし、ヨセフ族というのが出てこないのは、ヨセフに代わって、子どものマナセとエフライムがそれぞれ氏族として充てられるからです。また、レビは祭司の働きを担うため、土地は与えられず、レビとヨセフが除かれ、マナセとエフライムが加わって12部族となります。ただし、モーセに率いられた12部族のうち、マナセの族の半分とガドとルベン族はヨルダン川の東に嗣業を得ます。しかし、彼らは妻子と財産はヨルダン川の東に残しつつも、先頭に立ってカナンで勇敢に戦います。

 

 51節、ヨセフは長子にマナセという名をつけます。意味は「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」です。子どもの誕生とは、親にとってこれまでの労苦を忘れさせる。逆に言えば、マナセがいなければ、日々苦労を思い、故郷を思うばかりであったということでしょう。

 

 52節、二番目の子の名はエフライム。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」という意味。確かに、売られた身であり、囚人の身であれば、エジプトは苦しみの地。実り多い者とはヨセフの収入ばかりか、その役割を言っている。エジプトに住む多くの人々の命、将来に関わるということでもありました。

 

 ヨセフはオンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテと結婚しましたが、自分が好いたと言うより、ファラオに与えられて、逆らえない。これで、いい加減な仕事は出来なくなり、責任ある仕事を果たさなければならない。途中で逃げ出すことはできない。王の家系は政治を司り、祭司の家系は宗教を司り、両者が深く関係することは歴史的に多々見られますが、ある意味、ヨセフがしていることは行政ですが、政治に介入することなく、もっぱら実務と人々の生命に関与することに限定されます。ファラオの意図は、ヨセフが思い上がって、ファラオの地位に就くことがないように、歯止めをかけたとも言えましょう。ヨセフはファラオの威光にしっかり屈服しつつ、実は主のみ旨のうちにしっかりとどまっています。

 

 王の娘に育てられたモーセが、王家を出て、ミディアンの地の祭司の娘、ツィポラと結婚します。王との関係、祭司の娘を妻にするという点で、不思議な共通点を持ちます。イエス様は神様でありますが、私たちの真の救い主となり、祭司となり、王となってくださいました。私たちはイエス様とともに、救いの福音を伝え、祭司として執り成しをなし、世を治めます。

 

 さて、夢の解き明かしのとおり、7年の豊作は終わり、7年の飢饉が始まります。飢饉がすべての国々に臨んだということは、エジプトの周辺諸国である、カナンに住むヤコブにとっても同じであった。しかし、エジプトには食物がありました。

 

 エジプトの国民が困ったときに助けを求めるのはファラオ。ファラオの対応策は「ヨセフのもとに行き、ヨセフの言うとおりにせよ。」ということ。ヨセフは町々にある穀物倉を開けて、エジプト人に売ります。民から徴収しつつ、民へ販売するのか。といっても、販売価格はべらぼうなものではなかったと思います。また、ヨセフのもとに、各倉庫を管理する役人がいたと思われます。

 

 57節の全地は、エジプトの全地というよりは、54節の国々対応するもので、外国に対しては、それなりの利益を生む仕組みになっていたと思います。それゆえ、エジプトの国力は増し、ファラオが繁栄します。

 

 伝道者の書伝 5章9節に「国にとっての何にもまさる利益は、農地が耕されるようにする王がいることである。」とあります。これは食糧自給率を言います。聖書を知らないリーダーは、「外国から安い穀物を輸入すればいいのだ。原料を輸入して付加価値をつけて輸出すればいいんだ」と考えるが、一時はよくても、長続きしない。もちろん、豊作や飢饉はリーダーの手腕ではどうにもできない。だからこそ、神様に心を向け、敬い、従うことが大切です。

 

 

 日本の政治や経済やあらゆる分野のリーダーも神様を恐れる人物、神様がともにいてくださる人物、神様の知恵が与えられている人物が立てられるといいと思います。そのためにもしっかりイエス様を伝えて、信仰に到るように祈りましょう。もちろん、今立てられているリーダーがどんなリーダーであれ、とりなす私たちの役割はいつもとても大切です。


202357日 主日礼拝 創世記411-1628-45「ファラオの夢」

 

 詩篇90篇の4節に、「まことにあなたの目には千年も昨日のように過ぎ去り夜回りのひと時ほどです。」とあります。神様の時間間隔と私たちの時間間隔に違いあるのもある意味当然です。天地創造の6日間を、この詩篇を根拠に、24時間ではなく、もっと長い期間を要すという人も言いますが、それも、神様の能力と人間の能力の圧倒的違いから生じる結果でしょう。

 

 創世記で、主は、何度かアブラハムに語られていますが、その中に約束、契約も存在します。12章であり、15章です。最初の語りかけがあり、次に詳細がある。15章の1316節は、アブラハム自身のことではなく、子孫のことであり、後でわかるのですが、異国での奴隷としての400年が含まれます。

 

 さて、創世記41章は比較的長いです。叙述が丁寧です。しかし、必ずしも記述の長さが、文章の重要さを表すものではありません。新約聖書では、御霊に導かれて歩むことが勧められますし、一人一人の土台が神様のことばである聖書ですが、ヨセフの場合は、神様によって与えられた夢が、ヨセフの確信となり、苦しみに耐える力となり、指導的立場に到ります。

 

 ナイル川からワニが上陸するのは日常的であったと思いますが、「つやつやした、肉づきの良い雌牛が七頭、上がって来て、葦の中で草をはんだ。」とか、「醜く痩せ細った別の雌牛が七頭、ナイル川から上がって来て、その川岸にいた雌牛のそばに立った。」とは、日常生活で決して目撃することはないでしょう。ただ、水牛を指すのと見解もあります。衝撃的なのは、よく肥えた七頭の雌牛が痩せ細った雌牛を食すのではなく、その逆。そもそも牛は草食で、肉食ではない。ここが容易にこの夢を解釈できなくさせる点です。

 

 続いて、「一本の茎に、よく実った七つの良い穂が出て来た。すると、その後を追って、しなびた、東風に焼けた七つの穂が出て来た。そして、しなびた穂が、よく実った七つの穂を吞み込んでしまった。」世の中には、虫を食べる植物、食虫植物が存在しますが、植物を食べる植物は聞いたことがありません。もちろん、枯れた植物の栄養分を根から吸収するという意味では、どの植物にも共通することですが。

 

 洋の東西に限らず、国の上に立つ者は、多くの助言者を持っています。ファラオ自身がわからず、心が騒ぐので、人を遣わして、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。ファラオは彼らに夢のことを話した。しかし、解き明かすことのできる者はいなかった。そのとき、献酌官長がファラオに「私は今日、私の過ちを申し上げなければなりません。かつて、ファラオがしもべらに対して怒って、私と料理官長を侍従長の家に拘留されました。私と彼は、同じ夜に夢を見ました。それぞれ意味のある夢でした。そこには、私たちと一緒に、侍従長のしもべで、ヘブル人の若者がいました。私たちが彼に話しましたところ、彼は私たちの夢を解き明かしてくれました。それぞれの夢に応じて、解き明かしてくれたのです。そして、彼が私たちに解き明かしたとおりになり、ファラオは私を元の地位に戻され、料理官長は木につるされました。」と告げました。そしてヨセフが呼び寄せられます。

 

 「ヨセフはひげを剃り、着替えをして、ファラオの前に出た。」というのが面白いですね。4000年前のエジプトでも、王の前に立つにはもじゃもじゃのひげや、よれよれの服はよくないとは。エジプト人は喪に服している時だけ、ひげを伸ばしました。

 

 ファラオが素晴らしいのは、ヨセフの現況、国籍、経験は不問ということ。夢を説き明かしてくれるならそれでよし。人にものを聞けるというのは謙虚なしるしです。ヨセフはファラオに「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」という。そして、神様がファラオを繁栄させてくれると。

 

 私たちはあまりエジプトのことを知りませんが、ナイル川流域に、紀元前5000年、4000年頃、文明が築かれ、王朝は紀元前3000年ごろ現れ、30王朝以上変わります。このヨセフの時代のファラオはヒクソスと言われるシリア・パレスチナ地方に起源を持つ人々ではないかと。エジプト第二中間期を治めたのではないかと。あるいは第12王朝、センウスレト2世、3世のころ。人間も世界の歴史も高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高くされる。このファラオはへりくだった人。

 

17-24節は朗読を割愛しましたが、1-8節の繰り返しです。ヨセフは解き明かしをします。神様は、なさろうとしていることをファラオにお告げになった。豊作の7年と飢饉の7年です。「ですから、今、ファラオは、さとくて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの地の上に置かれますように。ファラオは、国中に監督官を任命するよう、行動を起こされますように。豊作の七年間に、エジプトの地の収穫の五分の一を徴収なさるためです。彼らに、これからの豊作の年のあらゆる食糧をすべて集めさせ、ファラオの権威のもとに、町々に穀物を蓄えさせるのです。彼らは保管し、その食糧は、エジプトの地に起こる七年の飢饉のために、国の蓄えとなります。そうすれば、この地は飢饉で滅びることがないでしょう。」ファラオも家臣たちもこの解き明かしに納得した。

 

 では、誰を監督官にするか。「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」「神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」ヨセフの意向も聞かず、ファラオは自分の指輪を指から外してヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。そして、自分の第二の車に彼を乗せた。人々は彼の前で「ひざまずけ」と叫んだ。こうしてファラオは彼にエジプト全土を支配させた。

 

 

 夢の解き明かしはお見事。そして、その対応策もお見事。ヨセフが賢かったのか。神様が示してくださったのか。王に召しだされたとき、こうなることを知っていたのか、解き明かしながら、王の顔を見ながら、この展開を読めたのか。いずれにしても、主はヨセフとともにおられた。そして、ファラオの決定もお見事だった。ヨセフはツァフェナテ・パネアハという名が与えられ、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを妻として与えられた。こうしてヨセフはエジプトの地を監督するようになった。それは神様のご計画が成就するためです。しかしまた、ヨセフの言葉によれば、神様はファラオを繁栄させるためでした。これは創世記12章3節の「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」にも関係しています。


2023430日 主日礼拝 創世記401-23「私を思い出してください」

 

 濡れ衣着せられて、投獄されたヨセフには悲しみはあったでしょうが、失望することなく生きています。ヨセフが投獄されて、どのくらいの期間を経たのか、記されていません。1節、エジプト王の献酌官と料理官が、その主君、エジプト王に対して過ちを犯した。その過ちとは何か。これも記されていません。もしかしたら、エジプト王が腹痛を起こしたのかもしれません。献酌官長に、そのことで落ち度があったのか、料理官長に落ち度があったのか。いずれにしても、王はこの二人に対して怒り、ヨセフのいる侍従長の家に拘留させます。

 

 ファラオに侍従長が何人もいるか、あるいは侍従長が交代したのでなければ、この侍従長はポティファルということになります。ポティファルは怒りに燃えてヨセフを投獄したわけですが、4節を見ると、ポティファルの、ヨセフに対する信頼は回復しているようです。そして、献酌官長と料理官長の付き人として、ヨセフをあてます。それほどヨセフを信用するならば、元の仕事に戻してもよく、解放してもいいのですが、ポティファルの妻の心は変わっていなく、監獄の中ではあっても、ヨセフの働きぶりが良かったので、解放する方向には進まなかった。一方、料理官長と献酌官長にとってみれば、ヨセフがいるおかげで、精神的にも肉体的にも、他の付き人よりはリラックスできたのではないでしょうか。そんな彼らが、同じ夜にそれぞれ夢を見ました。

 

 聖書では神様が何かを示すための夢が記されています。私たちが通常見る夢は眠りが浅い時の夢で、一説では、脳の整理をするといわれます。その人の願望が夢になることも、その人の恐れが夢になることもあると思いますが、神様が何かを示すための夢である場合、その意味がわかる場合と、解き明かしを必要とする場合があります。献酌官長が見た夢は9節、「夢の中で、私の前に一本のぶどうの木があった。そのぶどうの木には三本のつるがあった。それは、芽を出すと、すぐ花が咲き、房が熟してぶどうの実になった。私の手にはファラオの杯があったので、私はそのぶどうを摘んで、ファラオの杯の中に搾って入れ、その杯をファラオの手に献げた。」というもの。

 

 献酌官長と料理官長は、不思議な夢で意味がわからないから不安で、顔色がすぐれない。まさか、ヨセフが説き明かしてくれるとも思っていなかったが、ヨセフが「なぜ、今日、お二人は顔色がさえないのですか」と尋ねたので、彼らは語ることに。そして、ヨセフは夢を説き明かすのは人ではなく、神様のなさることであると伝えます。しかし、私に話してくださいという。つまり、私に語ってくれれば、神様がともにいてくださるので、夢の解き明かしができるという確信を持っています。夢の解き明かしだけではなく、神様がともにいてくださるから、何をどうしたらいいかわかる。ある意味、私たちも聖書を知っているから、何をどうすると良いかわかる。神様は神様を愛する者といつもともにいてくださる。

 

 ヨセフは献酌官長に「その解き明かしはこうです。三本のつるとは三日のことです。三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを元の地位に戻すでしょう。あなたは、ファラオの献酌官であったときの、以前の定めにしたがって、ファラオの杯をその手に献げるでしょう。あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は、投獄されるようなことは何もしていません。」と言います。

 

 しかし、献酌官長はどこまでヨセフの話を聞いていたか。13節前半の「三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを元の地位に戻すでしょう。」までではなかったでしょうか。あとは嬉しくなって、ヨセフを思い出すとか、ヨセフが投獄されるような罪がないといっても、献酌官長にはどうでもいいことであった。

 

 16節、料理官長は、ヨセフが献酌官長にした夢の解き明かしが良かったのを見て、自分もヨセフに「私の夢の中では、頭の上に枝編みのかごが三つあった。一番上のかごには、ファラオのために、ある料理官が作ったあらゆる食べ物が入っていたが、鳥が私の頭の上のかごの中から、それを食べてしまった。」という。ぶどうの房が熟して実を結び、ファラオに杯をささげるのと、ファラオのために作った食べ物が取りに食べられたのでは、結果は違うと思います。三日のうちにファラオがあなたを呼ぶということは同じですが、「あなたを木につるし、鳥があなたの肉をついばむでしょう。」という事態となる。二人が夢を見た三日目はファラオの誕生日で、ファラオは、すべての家臣たちのために祝宴を催し、献酌官長と料理官長を家臣たちの中に呼び戻した。そうして献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をファラオの手に献げた。しかし、料理官長の方は木につるした。ヨセフが彼らに解き明かしたとおりでした。

 

 さて、14節で、ヨセフは献酌官長に「あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。」と願ったが、23節、自分は元の役に戻りながら、ヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。思い出してあげるという約束も義務もなかった。人は自分が満ちあふれている時、幸せな時、人のことを思うのでしょうか。今の私があるのは、だれだれのおかげであると考える人はいます。また、苦しい時に、今自分がこんなに苦しいのは、自分ではなく、だれだれのせいだと考える人もいるでしょう。ヨセフが献酌官長に「あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。」と願ったのは、間違いだったのか。これは間違いというより、対比であり、誰に願いを言うべきか教えています。

 

 ヨセフとともにおられた主は、ヨセフが順調な時も、逆境の時も、ともににおられ、ヨセフの喜びも苦しみも悲しみも知っておられた。それは、主が幸せで、人のことを思う余裕があるからではなく、主がヨセフを愛しておられるからです。十字架上のイエス様に、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と一人の犯罪人は求めた。イエス様ご自身も十字架上で苦しみの真っただ中でしたが、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と答えられた。それは、人を御国に招き入れるのがイエス様の人となられた目的であったし、イエス様が人を愛されていたからであり、この犯罪人が求めたからであり、それに応えることができたからです。

 

 人に全く頼るなという意味ではなく、いつでも私たちを愛してくださる神様にこそ、どんな場合でも、どんな事柄でも、祈り願うことができるのです。

 

 

 一方で、もし律儀にも献酌官長がヨセフのことを覚えていて、ファラオに伝えていたら、ヨセフは解放されていたでしょう。しかし、飢饉のときに、カナンにいる一族が食料を得て、生きながらえるという一つの目的が達成されなくなってしまう。その目的のために、神様は、献酌官長がヨセフのことをすぐ思い出すようにはせず、ファラオが夢を見て心騒ぐときに、ヨセフのことを思い出させました。神様は確かにすごいお方です。


2023423日 伝道礼拝 ヨハネの手紙第一21-6「神のうちにいる」

 

 この手紙を書いたのは主の弟子であり、使徒であるヨハネです。使徒のヤコブとヨハネは兄弟で、父はガリラヤの漁師のゼベダイ、二人は性格が激しく、ボアネルゲ、雷の子という名をつけられました。サマリア人がイエス様を受け入れなかったとき、「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言うほどでした。しかし、これ以外は、この兄弟の激しさを感じさせる面はないと思います。特にヨハネは、イエス様と共に過ごし、思いも生き方も変えられた。彼が福音書を書いた目的は、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」と記しています。

 

 さて、ヨハネが手紙を書いた目的は、イエス・キリストを救い主として信じた人が、その信仰を全うするためです。先日、教会に電話があり「洗礼は受けれますか」という問い合わせがありました。「よその教会では、洗礼を受けさせてくれる教会もあるかもしれませんが、私たちの教会は、教会員として、共に信仰の歩みをする意思を持たないと洗礼はできません。ただし、病気で、病床にいる方は例外です。」と答えました。以前、近くに住む方で、祈祷会に参加し、「日曜日は仕事があって礼拝に出れないが、とにかく洗礼を受けたい」という方がおりました。また、洗礼の準備を重ねつつ、救いの証が書けず、罪、悔い改め、救いがわからず、洗礼て前でストップした方もおりました。洗礼はゴールではなく、公式なスタートです。

 

 ひとりの牧師が、牧師としての働きの中で、すべてのケースを経験するわけではありませんし、後になって、別の対応もできたと考えることはあるでしょうが、イエス様は多くの方々と関り、意外な対応を取られたので、私たちはイエス様の心を自分の心として歩めるといいなと願います。

 

 ある方は、クリスチャンは罪を犯したことのない人々と思っているかもしれません。しかし、実際は、自分の罪を自覚した者です。その罪と格闘した者もいるでしょうし、ことごとく敗北を帰せられたものもいるでしょうが、結局は、イエス・キリストが罪の解決者であり、私たちの罪を取り除くために、十字架にかかり、死なれ、罪と死に勝利し、よみがえられたことを信じる者です。

 

 自分で格闘せず、イエス様に頼るのは、努力しない人間と同じで、良くないと考えるかもしれませんが、人は自力で罪に打ち勝つことはできません。罪とは、神に逆らうことであります。人間が神様に逆らった結果が罪です。だから、神と戦って、神に打ち勝てないように、罪と戦っても、罪に打ち勝てません。勝てるのは罪のない神様だけです。なぜなら、神様ご自身が、ご自身に逆らうことはありませんので。

 

 ある職業に就くのに、例えば視力が悪いとなれないとか、犯罪歴があるとなれないということがありますが、クリスチャンになろうとしても、信仰がなければクリスチャンにはなれません。しかし、罪があってもなれます。いや、罪のない人間はいなく、その人間の罪のためにイエス・キリストは神でありながら、人となり、十字架にかかれたので、そのイエス様救い主として信じるなら、神の子になれます。

 

 イエス様は、「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:20-23)と教え、パウロは「彼らは、してはならないことを行っているのです。彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。」(ローマ1:28-32)と言います。ねたみや高慢はどこにでもあると思いますが、これが罪で、これが神様との関係を阻みます。

 

 罪を犯すことを喜ぶ者たちも実際にいますが、ヨハネの願いは、「あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」という。しかもヨハネが語っている人々はすでに救い主イエスキリストを信じている人々です。

 

 だから、過去の罪や現在の罪をもって、キリストを信じることを断念するのではなく、将来を含む罪からの解放を願い、キリストを信じるのです。イエス様は、私たちのために十字架にかかってくださっただけではなく、今現在、御父の前でとりなしてくださっておられる。感謝です。

 

 最後の裁判があります。御国か滅びか定められる。このとき、御父は、イエス様が支払われた血の代価を評価します。罪のない者が罪人のために死んだのであれば、その罪人がイエス・キリストを救い主として信じている以上、罰するわけにはいかない。それが神様の定めです。一人の人がすべての人を救うのかと悪魔は抗議するかもしれません。しかし、一人の罪によってすべての人が罪人とされるのであれば、一人の義の業により、すべての人を義とするという理屈は通るのです。

 

 神を知っている、つまり、神との親しい交流の証しが、神の命令を守ることです。この命令は神を愛し、隣人を愛するということです。神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。

 

 招きのことばはヨハネの福音書15章の45節ですが、ヨハネの福音書15章は神様との結びつき、そのことによる祝福、そして神様との結びつきによって生じることが記されています。

 

 神について、罪について、愛、永遠のいのち、救いについて、ずっと考えてきた人も、あまり感がたことがなかった人も、神様に愛されており、救いに招かれています。どうぞ、神様の祝福に与ってください。

 

 

 「自分にはできない」と思うかもしれません。しかし、救われたいと願うなら、すべて主イエスに御頼りすると良いのです。主は助けてくださいます。


2023416日 主日礼拝 創世記391-23「主がヨセフとともにおられた」

 

 これから、エジプトに売られたヨセフのことを読んでいきますが、ヨセフの生涯を振り返ると、ある意味、ヨセフは不幸な人間です。それは、若くして母を失う。だから父には大切にされる。しかし兄たちには憎まれる。そしてエジプトに売られてしまう。しかし、ヨセフの性格はとてもいい。正直ですし、人を恨まない。恨んでも当然のことをされても赦す。何よりも、損得で生きていなく、神様に与えられた役割を担って生きています。

 

 それでは、本日は創世記39章を見ますが、奴隷としてエジプト人に売られたヨセフは、ファラオの廷臣で侍従長のポティファルに買われます。誰のところで働くか、それによって、いろいろなことが左右されます。しかし、自分では選べない。ファラオはエジプトの王様です。どの時代のファラオか、固有名詞をつければわかりますが、聖書はここではそれを記していません。研究者は第15王朝のヒクソスの王たちの一人であると考えます。

 

 ポティファルは王のいちばん近くでお仕えする人物で、王の信頼が厚い人です。それゆえ、ポティファルの人柄も良かったと思います。もちろん、時代と場所は違いますが、ハマンのように、自分のことしか考えない強欲な者もいますが。ポティファルはなぜ、ヨセフを買ったのか。ヨセフの態度、姿勢を見たのだと思います。ヨセフは売られてきたにもかかわらず、人生に前向きで、反抗したり、逃走したりするような人物には見えなかった。誠実に見えた。ポティファルはいろいろな人物と出会い、人を見る目は確かだったと思います。

 

 誰でもヨセフの境遇に置かれれば、「不幸」と言うところ、実際にはヨセフが不幸ではなかったのは、主が共におられたからです。だからヨセフは物事がことごとくうまくいき、奴隷でありながら、初めからエジプトの上流の者にお仕えし、ポティファルは主がヨセフとともにいることを見ます。こうなると、ポティファル自身があれこれ口を出すより、一切ヨセフに任せるのがいいと考えます。そして、ヨセフのゆえに、ポティファルの上にも主の祝福がもたらされます。ヨセフは体格も良く、顔立ちも美しかったとあります。あなたはヨセフにあこがれるでしょうか。ああ、自分もヨセフのようだったらいいなとか、せめてヨセフのようなしもべがいたらいいなと。

 

 こうしたヨセフに危機が迫ります。ポティファルの妻は、ヨセフに目をつけて、「一緒に寝ましょう」と言った。ここが祝福と失敗の分かれ道になりますが、偉い気分になり、相手が求めてきたのだからと言って、ポティファルの妻と一緒に寝れば、神様の祝福を失います。ヨセフはごくごくまともなことを言います。「ご覧ください。ご主人は、家の中のことは何でも私に任せ、心配せずに全財産を私に委ねられました。ご主人は、この家の中で私より大きな権威をふるおうとはせず、私がするどんなことも妨げておられません。ただし、あなたのことは別です。あなたがご主人の奥様だからです。どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。」

 

 主人のポティファルに、家の中のこと一切、任せられているので好きなようにするのではなく、主人が喜ぶこと、願うことをわきまえている。ポティファルの妻は、あきらめようとせず、毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、一緒にいることもしなかった。本当に賢明です。

 

 ある日のこと、ヨセフが仕事をしようとして家に入ると、家の中には、家の者が一人もいなかった。これはどうしてか。ポティファルの妻がヨセフと寝るために、他の者を家から出るように命じていたかもしれません。神様の視点に立つと、次の段階に入るためでした。

 

 ポティファルの妻はヨセフの上着をつかんで、「一緒に寝ましょう」と言った。まともではない。ポティファルも忙しすぎたのかもしれません。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、彼女から逃れて外へ出た。なぜ、上着を残したのか。ケガをさせないためか。そもそもなぜ上着を脱いでいたのか。脱いだというより、脱がされたのかもしれません。「可愛さ余って憎さ百倍」ということわざがありますが、思い通りにならないと、ポティファルの妻のようになるのでしょうか。憎さに到るのはもともと正しい愛情ではなく、肉欲であることを示します。

 

 ポティファルの妻は、願望が叶わないので、家の者を呼び、「見なさい。私たちに対していたずらをさせるために、主人はヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげました。私が声をあげて叫んだのを聞いて、あの男は私のそばに上着を残して、外へ逃げて行きました。」という。しかし、家の者たちのうち、どれだけの者が彼女の言うことを信じたでしょうか。ヨセフの正しさはみんなわかっていたと思います。

 

 帰宅したポティファルに対し、妻は「あなたが私たちのところに連れて来た、あのヘブル人の奴隷は、私にいたずらをしようとして私のところに入って来ました。私が声をあげて叫んだので、あの男は私のそばに上着を残して、外へ逃げました。」という。ポティファルはこのことを聞いて、怒りに燃えた。しかし、自分が見込んだヨセフに欺かれたのか、あるいは妻に欺かれているのか、その怒りは判断を狂わせます。しかし、奴隷であるヨセフが殺されないのは理由が2つありました。神様がともにおられることと、ヨセフのこれまでの生き方です。

 

 ポティファルはヨセフを捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄にヨセフを入れた。ヨセフには事情は聴かれず、弁明の機会もない。奴隷とは、自らの意志を貫くことも、自らの思いを語ることもできない。しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。もし、ヨセフが罪を犯したならば、主はヨセフから離れられるし、恵みはない。しかし、主が共におられ、恵まれるということは、ヨセフにとっては、人間の理解者を得るより、慰めであり、喜びであった。ファラオの廷臣にお仕えすることから、監獄の長にお仕えすることはある意味格下げかもしれないし、監獄の中では身の自由が制限される。しかし、ここでも監獄の長の信頼を得、人の財産の管理ではなく、囚人を相手に、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。

 

 

 父のところで、羊を飼っていたヨセフは、エジプトに売られ、濡れ衣着せられ、投獄され、状況は真っ暗。しかし、主が共におられる。私たちもヨセフと同じではないでしょうか。主イエスを救い主と信じ、聖霊がうちに住まれる。神の許しがなければ、どんな祝福も災いもない。そして、家庭で、学校で、職場で様々なことが生じるが、主が共におられ、将来に向けて、大切なことを教え、訓練し、備えさせてくださる。


202349日 イースターファミリー礼拝 ルカ241-12、ローマ425

 「イエスは死に打ち勝ち、よみがえられた」

 

 父なる神様の一人子、イエス様は、私たちを罪から救い出すために、イエス様も神様であるのに、人間となって生まれてくださいました。

 

 イエス様が、私たちを罪から救い出す方法は、イエス様が私たちのために十字架にかかり、死んでくださることでした。本当は、滅びなければならない私たちのために、イエス様がご自身の血で、代価を払い、私たちを贖ってくださいました。買い戻してくださいました。

 

 ある男の子が、ミニチュアのボートを作り、川で、ボートを浮かべて遊んでいた。ところが、ボートは下流に流れていき、そのボートを失った。しばらくして、街のリサイクルショップで、自分の作ったあのミニチュアのボートを発見。お店の人に、僕のだから、返してくださいと言った。しかし、お店の人は、このボートが君のものだとしても、私も、このボートはいいと思ってお金を出して買ったものだよ。だから、全くただで、君に渡すわけは行かないんだよと言いました。

 

 人間は、神様に造られた存在です。神様は最初の人アダムに、エデンの園で、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と言われました。

 

 アダムとエバが、禁じられた木の実を食べたのは、蛇がエバに「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」と言ってだましたからです。しかし、エバも、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましと思ったから。それで、エバはその実を取って食べ、ともにいたアダムは、エバを制止することなく、自分もエバからもらって食べた。

 

 罪とは、神様の戒めに背くことです。神様は、人間が死なないように、「善悪の知識の木からは、食べてはならない。」と注意してくださった。それなのに、神様の注意を無視して、悪魔にそそのかされ、エバの勧めに従った。

 

 神様は人間に対して「ばかもん。」としかることもできたし、「言ったでしょ。」と怒ることもできた。でも、人間を救うために、イエス様を地上に送り、イエス様は、本来死ななければならない人間の罪の刑罰を受けられた。

 

 前言撤回と言って、前に言ったことをなしにすることがあります。でも、神様は前言撤回ができても前言撤回をせず、「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と言われたことを変えず、イエス様を十字架にかけられた。

 

 ある人は、神様はど真面目、固すぎ、融通が利かないと思うかもしれません。しかし、神様は義なる方であり、愛であるので、こうされました。

 

 悪い人がいたら、皆さんはどうしますか。一度悪いことをしたら、一生赦さないか。赦しても一生関りを持たないか。でも、神様は人間を愛しているから、人間のために、大切なイエス様を犠牲にし、赦し、回復を与えてくださいます。

 

 イエス様はかわいそうですね。人間のために、十字架にかけられて。でも、イエス様は父なる神様にお従いするのが一番の喜びです。そして、イエス様を人間を愛しておられます。

 

 こんな素晴らしい父と御子なる神様を知り、信じている私たちは幸せです。まだイエス様を知らない方々に、お伝えできると良いですね。

 

 さて、十字架にかけられ、死なれ、墓に葬られたイエス様はその後どうなりましたか。3日目によみがえられました。イエス様が何度も言われた通りです。

 

 イエス様は私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださるという約束も、イエス様がよみがえられたことによって、信ぴょう性を増します。イエス様が本当に死んだことは、兵士がイエス様の身体にやりを突き刺し、血と水が出たことにより、確かです。イエス様がよみがえられたのも、ローマの兵隊が目撃したことであり、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちも、イエス様が納められた墓が空っぽになっているのを確認しています。また、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」と御使いが言うのを聞いた。

 

この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかったが、ペテロは走って墓に行き、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った。

 

 そして、手にくぎのあと、脇にやりのあとが残るイエス様に弟子たちはお会いし、イエス様が天に上るまでの40日間に、500名以上の人がお会いしています。イエスは死に打ち勝ち、よみがえられました。

 

 

ローマ書425節には、「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」と書いてありますし、使徒224節には「神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。」とあります。神様に手抜かりはありません。イエス様はよみがえられました。次は私たちを迎えに来られます。神様に感謝しますし、神様をほめたたえます。


202342日 主日礼拝 使徒の働き13-8節 「わたしの証人となります

 

 2023年度の年間聖句として、使徒の18節「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」を掲げます。この聖句は、よく目にします。マタイの福音書2818-20節、マルコの福音書1615-16節と多少表現は違いますが、同じ内容です。

 

 マタイは「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」と命令の根拠、「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」と命令内容、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と約束があります。

 

 マルコは「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」という命令と、「信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」ということで、福音を宣教された者が信じるか、信じないかが、救われるか、罪に定められるかの違いを生みます。

 

 命令があれば、従う人と、従わない人と、従おうとはしているものの、もたもたしている場合があるのではないでしょうか。ここには、命令に従わない場合の罰則は知らされていませんが、エゼキエル書は、預言者に対して、3章で、語れという命令に対して、語らない場合の責任が記されています。ヨハネ1423-24節には「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」とあります。

 

 さて、私たちの場合はどうか。いろいろな言い訳を並べることはできます。旧約と新約は違う。私は預言者ではない。私は牧師・伝道師でもない。しかも、マタイもマルコも、イエス様が直接語られているのは12弟子です。ただし、私たちは自分たちの都合・事情に合わせて、これらの言い訳を使うことはないか。

 

 今週は受難週です。イエス様が十字架にかかり、死に、墓に葬られたことを覚える週です。ここで大切なのは、イエス様は、誰のために、十字架にかかられたか。何のためにかかられたのか。それは私たちのためであり、私たちの罪を取り除くためであり、私たちが神様との関係を回復し、永遠のいのちを持つためでした。

 

 選びの民であったユダヤ人でさえ、神様から離れていきました。選びの民であるユダヤ人でさえ、自分たちの願いをかなえるために、神でない偶像を拝みました。こんなことなので、異邦人が神様を大切にできないのもわかります。しかし、神様はユダヤ人であろうと、異邦人をも愛しておられ、計画を持っておられる。

 

 使徒13節からは、十字架の死から三日後によみがえられたイエス様についてです。「イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」と語られた。使徒たちであるのは明確です。

 

 6節、使徒たちの中には、アッシリア、バビロニア、ギリシア、ローマに踏みにじられたイスラエル国家の復興に期待するものもいた。イエス様が7節で「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。」と言います。それは狭い地域に、民族に限定されているものではない。

 

 8節「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」と言われました。もし、イエス様が12使徒に限定したのであれば、この時、この所にいなかったパウロは含まれません。パウロは自分で使徒となったのではなく、主によって使徒とされたわけですが、12弟子がどれだけ、主の弟子としての自覚があったのか、神様に遣わされたものとしての自覚がどれほどあったか。しかし、主によって、弟子とされ、使徒とされたのです。そして、主イエスの十字架の死とよみがえりの証人となったのは、12使徒だけではなく、ここにいる私たちを含む、イエス・キリストを救い主として信じた一人一人、聖霊が内在される一人一人です。

 

 ある人は、自分はイエス・キリストを救い主として信じたと言いつつ、聖霊が内在されているかわからないという。しかし、聖霊によらなければだれもイエスは主とは言えないのです。イエスは主とは、口だけでオウム返しで言うとか、書かれていることを読むとかではなく、あなたこそ、私を救ってくださった神様ですという告白です。人はやすやすと誰かのしもべにはなれない。しかし、イエス様は私たちの罪を負ってくださり、十字架で処理してくださり、罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださった。これは大きな喜びであり、感謝なことであり、「主よ。私にできることならば、何なりとお申し付けください」という思いを持つ。

 

 「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで」というが、ここは日本。エルサレムを自分の家庭、ユダヤを友人、親族、普段自分の関わることのできる範囲、サマリヤの全土を自分が普段関わらないところ、地の果ては、思い浮かばない範囲、想像もしない、今知らない範囲としてもいいでしょう。

 

 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」とあって、こちらは命令、「わたしの証人となりなさい」ではない。しかし、それこそ、イエス・キリストといつも一緒に歩むことから始まります。イエス様が導いてくださった。イエス様が助けてくださった。イエス様が与えてくださった。イエス様が担ってくださった。本当はそう言うことばかりなのに、私たちはそれを隠してはいけない。

 

いいお店を人に紹介すると、混雑し、とっておき感がなくなるから人には話さないということはあるでしょう。いい人も同じかもしれません。しかし、イエス様は神様だから、皆さんに紹介したからといって、イエス様と今の私たちとの関係が希薄になることはありません。ですから主の証人として歩みましょう。


2023326日 伝道礼拝 使徒の働き91-9節 「あなたはどなたですか

 

 本日は伝道礼拝にようこそおいでくださいました。今日は、新約聖書に21ある手紙のうち、13通を書いたパウロの回心を見ます。パウロについては、13もの手紙があるゆえ、生まれや思想が他の人物よりわかりやすい人物で、キリスト教の真理を整理して伝えているため、教会にとっては、なくてはならない大切な存在の一人です。もちろん、絶対不可欠なのは救い主イエス・キリストです。パウロの信仰と行動にならえと、国内でもクリスチャンの子の名に、パウロ、ぽうろがあり、海外では一般にも、ポールという名は多いと思います。

 

 パウロはもとはサウロと名乗っておりました。ユダヤ人家庭に生まれ、律法で厳格なパリサイ派の教育を受け、同世代の者の中では際立っていた。何より、彼自身非常に熱心でした。祭司長、律法学者がキリスト教を弾圧しますが、その片棒を担うような人物がサウロでした。ステパノが最初の殉教者となりますが、サウロはステパノ殺害に同意していました。

 

 91-2節を見ると、大祭司がサウロに、キリスト信者を捕縛するように命じたのではなく、サウロがキリストの弟子たちを脅かして殺害することができるように、大祭司の許可を求め、キリスト信者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来ようとしていました。ユダヤ教に熱心であるがために、新しい流派は一切認めない、容赦しないというスタンスです。

 

 さて、3節、サウロがダマスコという町の近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」と自分に語りかける声を聞いた。サウロは「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」と答えがあった。サウロは地面から立ち上ががり、半信半疑、手を引かれてダマスコの町に入ります。彼は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。

 

 突然目が見えなくなると、ショックでしょう。まぶしい光を見たのでしばらく見えないだけなのか、失明してしまったのか、不安も増し、食事もできない。イエスは、自分が神の子だと言ったので、神への冒涜であるとして処刑されたのであり、弟子たちが、イエスは死からよみがえったといい加減なことを言うので、キリスト教信仰を撲滅させようとしていたサウロ。サウロは明確な信念をもってやっていた。

 

 不遇の死を遂げたイエスの霊が漂っているのか。もしそうだとしたら、世の中には死んでも死にきれない、不遇な霊はうようよいるはずです。そうではなく、しかも自分の聞き間違いや思い違いではなく、自分が捕縛していた弟子たちの主であるイエス・キリストの語り掛けを聞く。

 

 一方で、ダマスコにいる主の弟子アナニアに対して、イエス様が、「ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を訪ねなさい。」と命じます。アナニアは「主よ。私は多くの人たちから、この人(サウロ)がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。」といいますが、主はアナニアに「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」と言います。アナニアは重い心持ちだったと思いますが、サウロのところに行き、サウロの上に手を置き「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」と祈り、宣言します。するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。これがマジックではないことはサウロには明らかであった。サウロは主イエスが神であることを知り、悔い改め、キリストに従うことを決意します。彼は立ち上がってバプテスマを受け、食事をして元気になった。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいて、ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。

 

 サウロはユダヤ教信仰をやすやすと捨てて、キリスト信仰を持つのか。散々キリスト信者をヒビらせておいて、あっさりキリスト者か。サウロには今までの信仰に対する誇りはないのか、と思う方もおられるかもしれません。ある意味、過去は過去。わからなかったから、キリスト信者を迫害していた。だけど、ダマスコ途上で主イエスに出会い、主イエスのよみがえり、主イエスが神であることを体験した。すると、今までのユダヤ教に留まり続けるわけにはいかない。とても賢明な決断をした。最初は自分に対して警戒する者もいる。しかし、親切に受け入れてくれる者もいて、自分がしてきた過ちを一切咎めない。これこそ本物だと思ったのではないか。これを改心と言います。22節では「サウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。」とあります。

 

 私たちは、イエスに従うか従わないかと迫られると、どうするか。「まだまだやり残したことがあります。」「そんなに信仰に熱心でありません。」と答えるでしょうか。いずれにしても、一番大切なのは尽きてしまう自分の命ではなく、いつまでも続く神様と自分の関係ではないのでしょうか。仮に、散々悪事を働いてきたとしても、その人を赦し、救うのがイエス様です。

 

 自分たちを迫害したサウロに対して、警戒心だけではなく、赦せない思い、受け入れられない思いを持った者もいるかもしれません。アナニアはその一人だったかもしれません。主がアナニアに「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」と言われたことで、本当は、サウロのところには行きたくないと思っていたであろうアナニアの心も変えられます。

 

 一方、キリストに従う身となったサウロことパウロはピリピ人への手紙3章で次のように語ります。「私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」神様を知らない人にとっては、一番大事なのは一度きりの人生です。そして人生を豊かにするものこそ、お金であると考えます。しかし、救い主イエス・キリストを信じ受け入れると、一度きりの人生や尽きるお金よりも、本来あるべき罪のない状態となって、神様との関係を持ち、合わせて永遠のいのちを持つことができます。

 

 

 人生がうまくいかなくなった時だけではなく、人生がうまくいっている時も、あるいは、ごくご普通のときも、造り主である神、救い主であるイエス・キリストを、聖書を通して、思い巡らせてください。